December 30, 2005

【本日の福音】ルカ2:22-40

いやぁ、久しぶりですねぇ~~、「本日の福音」。もう、半ば、「本年の」福音、に化しつつありますが。(^_^;)
多分、これが(バックデートでの投稿を除き←と言うのも、まだ未提出の宿題をこれからでも間に合わせる希望を捨てていないから、ですが…)本年最後の「本日の福音」になるでしょう。

さて、本日は「聖家族」の祝日です。例年、主の御降誕の次の主日にあたる移動祝祭日ですが、今年は御降誕が主日にあたり、年内にもう日曜がないので、本日祝うことになっています。

で、「聖家族」のミサで読まれる朗読箇所でいつも耳が痛いのが、第一朗読の「シラ書 3:2-6、12-14」の

「子よ、年老いた父親の面倒を見よ。
 生きている間、彼を悲しませてはならない。
 たとえ彼(=父親)の物覚えが鈍くなっても、思いやりの心を持て。
 自分が活力にあふれているからといって、彼を軽蔑してはならない。」

と言う箇所なんですが、幸い(?)今日はB年。第一朗読は「創世記 15:1-6、21:1-3」です。

…ですが、このコーナーで取り上げるのは福音だけなので、今日取り上げるのは、「ルカによる福音 2:22-40」です。(←リンク先は、例によって、全米カトリック司教協議会USCCB-NABの英文テキストですが、本日の箇所だけにリンクを貼ると、しばらくたつと該当ページが削除されてしまうので、ルカ書第2章全体にリンクを貼りました)

今日の朗読箇所は、第一朗読の「創世記 15:1-6、21:1-3」が長い(…ってほどでもないですが)せいか、朗読に長短2パターン用意されています。短いパターンでは、中ほどの老シメオンと女預言者アンナのくだりが省略されます。しかし、省略が多くとも、ミサの中で正式に朗読される福音なので、「立って聴いてるのが辛いんだけど、短くて良かった;神父様のお説教も短いといいな」…と思うのではなくて(^_^;)、ちょっとここで味わってみたいと思います。

あんまり短いので、(新共同訳の翻訳者の著作権を尊重して、いつも引用しないのですが)もう全部、引用してしまいたくなりますね。が、それは堪えて、要約してみると、律法に規定された産後の清めの時期を終えた聖家族が、律法の掟にあるごとく「初めて生まれた男子」を主に献げる為にエルサレムに上り神殿を詣でた話と、ナザレに戻って後の少年イエスの素晴らしい成長について記されています。

新共同訳では「初めて生まれる男子」となっていますが、上のUSCCB-NABでは、

「Every male that opens the womb shall be consecrated to the Lord」
胎(タイ)を開いた(=初めて子宮から出て来た)男子は皆、に献げられなければならない

と、より旧約での律法と直結した表現になっています。初子(ういご)の聖別と言えば、エジプトでの過ぎ越し(出エジプト記12:1-30)、(鴨居と入り口の二本の柱に塗った)過ぎ越しの羊の血によって主のものとして聖別されたすべての家の初子が「撃たれ」ずに助かった出来事を思い出しますしが、これを記念して、神様は「初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである。…あなたの初子のうち、男の子はすべて贖(あがな)わねばならない。」 (出エジプト記34:19-20)、と律法の一部となさいました。神への奉献は、言わば、贖い(=滅びる定めの人間が、金を積んでも買い戻せないその命を、神の御業によって救われること)の印です。そして、この贖われた男子、神の為に聖別された者として、救い主イエスは成長していくのです。

ところで、ここで、お生まれになった救い主の「芽を摘み取」ろうと、ヘロデ王はベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を全員殺させましたが、同じ年頃の男の子であるイエスが、この時期(産後の清めの時期は40日間です)、エルサレムの神殿なんてウロウロしていて大丈夫なんだろうか?…、なんてちょっと疑問が生じました。
が、よく考えてみれば、ベツレヘム周辺だけでも2歳以下の男の子は数え切れないほどいたはずで、初子の奉献の為に、ユダヤ全土からエルサレムの神殿に参詣して来る家族は、もう星の数ほどもあったから、ちょうど、お正月の明治神宮の境内みたいな雑踏になって、とても男子殺害なんてやってらんなかったのかも知れませんね。
…だけど、東方の三博士の話をよく聞いていれば、メシアのお生まれになったのが何月何日で、その40日後は神殿にやってくるはずだから、その前後3日間、「公安警察」(?)を張り付かせておくこともできたかも知れなかったのになぁ…、とも思ったりして…。
…ま、でも、神殿なんて神聖な場所で(人の)血を流すなんてことは到底、無理でしょうけどね。

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December 12, 2005

「カテゴリー」を改良しました

さてさて、このブログ「霊妙なる器 Vase Spirituale」も、あと3週間ほどで1周年を迎えます。で、ふと、左のサイドバーを見ると、「バックナンバー」のインデックスの数が10しか、なひ…。1年は12ヶ月あるのに…。これでは、「バックナンバー」のリストに表示されず、埋もれてしまって、検索しにくく、読みづらくなる記事が出て来てしまう…。

ところで、思いついた時についつい、追加してしまうココログの「カテゴリー」(=各記事の末尾に列挙されているテーマ区分)。勿論、新規設定前の記事や、Blogpetの「トン吉」が勝手に書いた記事等には付与されていません「でした」。これを、遡って、関連記事全部に「カテゴリー」付けしてみることで、特に【本日の福音】【読みかけ日記】【現代社会と霊性】と言ったシリーズものにアクセスしやすくなりました。また、「トン吉」を愛してくださる酔狂な方たちが、過去の「トン吉」の発言だけを拾い読みして楽しむこともできるようになりました。

そんな訳で、やたら数が増えてしまいましたが、いろいろな「カテゴリー」別に表示させてみて、お楽しみください。

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February 21, 2005

【本日の福音】ルカ6:36-38

いやぁ、はっはー、もう、す~~~っかりご無沙汰してしまいましたねー、【本日の福音】。とうとう、「今月の福音」に近づいて来た感があります。

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)
※どうも、「ルカ6:36-38」へのフラグがないみたいで、今日は、福音だけでなく、第1朗読・詩編も含めた朗読箇所のページを使います。 (と言ってるうちに、年末となり、朗読箇所のリンクが無くなってしまったので、ルカ第6章全部載っているページのリンクを貼っておきます。2005.12.12)

今日扱うのは、イエス様が「御父のように憐れみ深い者になりなさい」「人を裁くな」「人を赦し、人に与えなさい」と教えられる場面です。

とても難しい教えです。言葉は簡単ですけどね。特に「人を裁くな」が難しいのではないでしょうか。
日本人は、西欧ほど個人主義が強くない代わりに、義憤に駆られる人・正義感の強い人が多いと言う気がしているのですが、洗礼を受けてクリスチャンになろうと言う人は、何がしか、善悪だとかこの世の不正義ということに敏感で、人一倍正義感の強い人が多いのではないでしょうか。しかも、自分の潔癖さに人の何倍も気を遣うあまり、他人を断罪してしまい、 真に断罪する権限をお持ちなのは主お一人だと言うことを忘れ、傲慢の罪に陥ってしまうこともよくあるような気がします。
実際、カトリック信者同士でも(と言うより、金持ちもいれば貧しい人もいる人間社会の縮図のようなカトリック信者だからこそ、と言うべきかも知れませんが)、気心知れた者同士が面と向き合えば、そして周囲にシスターや神父様が見当たらなければ、とかく他人の批判に走りがちです。若い男性信者が主婦の井戸端会議のように雁首並べて他人の悪口を言い合っているのはあまり見たことがないのですが(もっとも、そんなタメ口を聞く様な男性信者の知り合いはいませんけど)、女性信者だったらもう、告解ネタに事欠かないんじゃないか、と思うほど日常茶飯です、マジ。ああ、反省、反省、反省しきり、です。
多分ね、口を開く時には他人の悪口を言うようなつもりはないのでしょう。共通の知り合いにちょっと心配な人がいる。こんな問題行動・発言があった。ああいう態度は注意した方がいいのではないか。あの物言いは人を傷つけるのではないか、配慮に欠けるのではないか、云々かんぬん。私も相当、お節介焼きな方ですから、喋り出すと、他の人について見た話・聞いた話があれよあれよと次から次へと出て来てしまいます。「良かれ」と思って、後々、その対象の人に会った際に教え諭す・気をつけて見守るつもりで話題に上げるのですが、結局、肝心の隣人的助言は後には続かなくて、その前段階の根回し・情報共有で終わってしまって、喋った後はなんだか自分が良い信者であるような気がして、スッキリ、なんてことが往々にして起こりがち。
これでは排泄行為と変わりませんね。汚いものを放り出して、カタルシス。大事な祈りが伴わない。
カトリック信者は、まず、祈りの人でなくてはなりません。議論や作業に取りかかる前に、まず膝まづいて(そこまでしなくても、最低、十字の印を切り) 祈りを捧げ、正しい判断ができるよう聖霊の照らしを乞うのがあるべき姿でしょう。信者仲間での会食でも、食前の祈りを忘れることもしょちゅうだし、なかなかできませんけど。
しかし、悪魔が聖母に化けてある神父に現れた時に、誘いに乗る前に「まず一緒に祈りましょう」との神父の促しに、悪魔が正体を現し、悪態をついて去って行った、と言うエピソードが、何かの聖人伝にありました。
祈りは識別の第一歩です。告解しさえすれば何もかも赦されると思うのではなく、そもそも罪や過ちに陥るのを防ぐために、たとえ一瞬でも心を神に揚げる習慣をつけることは、とても大切なことだと言う気がするのです。そしてそれは、聖堂に入る前に額に聖水を付けて十字を切るより、もっと大事なたしなみなのではないでしょうか。((-_-;)自戒、自戒!)

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January 15, 2005

【本日の福音】マタイ1:29-2:17(水-土の4日分)

…いよいよ、【本日の福音】が「今週の福音」に近づいて参りました。あ~あ…(-_-;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト マタイ1:29-1:45
New American Bible版テクスト マタイ2:1-17
(全米カトリック司教協議会による)

今日取り扱うのは、多くの病人を癒し、徴税人のレビを弟子にする箇所です。

イエス様はどうして、こんなに多くの病人を癒したのでしょうか? 「神の愛」を体現するだけに、病気で困っている人を見るに見かねて、激しい同情心に駆り立てられたからでしょうか?

そういう理由もないこともなかったでしょうが(…二重否定?)、当時、多くの敬虔なユダヤ人は、病気、特に「重い皮膚病」は、罪ゆえに神から来る罰だと考えられており、律法にも共同体に戻る為には「浄め」が必要、と定められ、「罪深い自分」は神に近寄れない=神殿で神を礼拝することなどできるような、神に相応しい存在ではない、と自己否定に走り、神から遠ざかってしまっていました。

しかし、それは神についての誤った認識です。神様は、慈しみ深い方です。それは、旧約だから「厳しい」、新約だから「愛の神様だ」、とか言う時代区分についての誤った常識には関係なく、太古の昔の最初から、実は、「赦し」の神だったのです。人間が犯した罪を素直に認め、童心の様に神様に立ち返ろうと正しい決心を起こされるなら、先回りして抱き締める用意をして待っておられる方なのです。神様は、永遠に、昔も今も、その性質を変えたりなどなさいません。ただ、人間の方の間違った思い込みが、「神様は厳しい方」と言う、誤った神様像を作り上げていただけです。

その為、イエス様は、人々の抱く神様への認識を正しいものに訂正してあげる必要がありました。そして、誰でも、素直に神に立ち返りたい人は皆、神様との仲直りができるよう、神様へ向かう「道をまっすぐに平らに」してくださったのです。勿論、その準備は洗礼者ヨハネも行いましたが、洗礼者ヨハネは、「罪の赦し」そのものの権限は持っていませんでした。イエス様は、 人間の罪を取り除く権能をお持ちの神様そのものですので、 (普通の敬虔なユダヤ人なら、「近寄るのも汚らわしい」と感じる)病人に対してであっても、罪深い職業とされていた売春婦やレビのような徴税人であっても、彼らに向かって真っ直ぐに歩いて行かれます。

なぜなら、神は、病人を病気ゆえに、人を職業ゆえに「罪びと」だ、なんてお考えではないからです。罪は、人の心より生じるものです。「神様に赦されて、再び神の民に加えられたい」と言う望みを持っていたとしても、人間の限られた理性故に陥っている誤った自己否定と周囲からの偏見、そんなつまらない理由で、欠けがえの無い神さまとの愛の交わり・愛し愛されの相思相愛状態(=「至福直観」 とも言いますが)を放棄し小さく孤独に震えているなんて、そんな哀れな人間の姿は見るに見かねるのです。神との交わりの障害になっているのが、ただ、病気だったり、職業に対する偏見だったりするなら、その障害さえ取り除いてあげれば、御許に戻って来る。自分の枠に囚われている人間にはできないのなら、神の方から歩み寄ろう。神様の愛とは、そういうものです。

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January 11, 2005

【本日の福音】マルコ1:14-28より(2日分)

ここのところ、クリスチャンでない父にキリスト教関係のDVD(とりあえずは『ミッション』『親分はイエス様』 )を見せようと画策していて、この連休の日曜の夜には『天地創造』(原題: "The Bible ...in the beginning")を一緒に見ました。ノアの箱舟のシーンは圧巻でした。この次は『十戒』を見るぞ~(未入手)。2月9日(灰の水曜日Ash Wednesday)から始まる四旬節(Lent、カトリックの復活祭の準備期間で、言わば「祈りと断食」のシーズンです)に『パッション』を見せたいんですねぇ。

そんなこんなで、すっかり投稿のタイミングがずれ込んでしまい、今日は2日分です。(^_^;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

さて、今日のところは、イエス様の公生活の始まり、最初の4人の弟子の召し出し、悪霊の追い出しの場面です。
マルコによる福音書では最初の弟子の召し出しはサラリと書かれているだけで、なんだかこの4人は考えなしに知らない人に付いて行っちゃったみたいですが、ルカによる福音書5:1-11では、不思議な漁とシモン・ペトロの召し出しが詳しく伝えられています。また、ヨハネによる福音書1:35-42では、まず洗礼者ヨハネの弟子だったアンデレが「見よ、神の小羊だ」 と教えられてイエス様に付いて行き、次いで自分の兄弟シモン・ペトロに紹介するくだりが述べられています。 (以上、1/10分)

続く悪霊(「汚れた霊」 )を追い出す場面では、「汚れた霊」が「ナザレのイエス、 (引用中略)正体は分かっている。神の聖者だ」 と叫ぶのが印象的です。私は、霊の世界のことには疎いので(^_^;)、「名指し」のもつ意味とか、この辺の事情に不案内で、なんだか敵がイエス様のことを褒めてくれたみたいな、変な感じがしますです。
この「汚れた霊」は、故人である幽霊(←カトリックでは地獄に堕ちたのでない「煉獄にいる霊魂」は、既に救われていずれ天国に入る浄い霊です)でも、悪魔(サタン、神様に叛旗を翻した堕天使)でもなく、もっと低級な霊的存在のようです。と言うのは、続いてこの出来事を見て驚いた人々が「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と論じ合っているからです。
この発言にも、現代を生きる私たちと、昔の人たちとの言語感覚(?)の違いを意識させられてしまいます。つまり「権威」 (authority)と言う概念です。被造物はすべて神のご命令に逆らえません。神から出る意志命令系統の正統性を表わすものが本来の意味での「権威」です。 (絶対王政の王権神授説は、国王が神の教えに従っている限りは、正統なものでした)
翻って、私たちが考える「権威」とは何でしょう?「権威主義(的)」などと言うとまるで、自分がなく、長いものに巻かれようとする役人根性のようです。しかし、「正しい権威」に従うのは、自由意志の最高の発露です。なんか、カントめいて聞こえますが、話は逆で、カントの倫理性は、キリスト教的な「自由」概念から出発しているのです。 (カント哲学の宣伝をしているのではありません)

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January 09, 2005

【本日の福音】マタイ3:13-17より

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日(=主日)は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面でした。
「洗礼」とテクストにはありますが、教会ができてからの秘跡としての「洗礼」 とは、ちょっと意味合いが違います。教会の秘跡としての「洗礼」は、教会のメンバーに加えられるに当たって、アダム以来の原罪と、その人自身がその日までに犯してきた罪である自罪の両方を、神である主イエス・キリストの権限において、秘跡の執行者を代理人として、まったく浄めてしまう儀式です。「罪の赦し」は神にしかおできにならないので、目には見えませんが、それを「洗礼」という目に見える行為で表現するのが、教会の秘跡としての「洗礼」です。
さて、当時、ユダヤ人の間で宗教的な「禊ぎ(みそぎ)」の儀式として水に身を浸すことがあったようですが、洗礼者ヨハネは更に発展させて、神に対して犯していた罪を「悔い改め」るしるしとして、罪の告白(現在の教会では聴罪司祭による「赦しの秘跡」として行われています)と一緒に施していたようです。
ところが、そこへイエス様がお見えになりました。イエス様は罪など犯したことのないお方です。当然、告白すべき罪もありませんし、「悔い改め」る必要もありません。それでも、人々の模範として率先して、神へとまっすぐに心を向かわせる行為である「洗礼」を受けたかったのです。
「悔い改め」とは、何だか、ややもすると舌を噛みそうな位音節が多くて、難しい響きの語ですが、「改心」とも「悔心」とも「回心」とも言います。「回心」とは、これまで神から離れ私利私欲や自己愛に走っていた私心を捨てて、心を神様の方に向けることです。自分の罪深さに無神経では神様の方を向けませんので、自然、己れの罪深さへの後悔の念と二度と罪を犯したくないと言う決意を伴います。だから「悔い改め」なんですね。難し気ではありますが、「神様の方へ向き直ることだ」と考えれば、今すぐにでもできそうではありませんか?

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January 08, 2005

【本日の福音】ヨハネ3:22-30より

あらら~、だんだんどこのTime Zoneで暮らしているんだか判らなくなってきましたね~。(^_^;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日は、洗礼者ヨハネが衰え、イエス様が栄える、というくだりです。
福音の本筋とは離れるかもしれませんが、私はこのような「証し」が議論されるパッセージを読むと、今の信者と昔のユダヤ人との、言葉のもつ力と言うか重みに対する意識の違いみたいなものを強く感じます。「証言」と「正統性」とがイコールであるかのようで、ある種、羨ましさを感じたりするのですが。
さて、洗礼者ヨハネの台詞に出てくる「花婿」はメシア=イエス様、「花嫁」=敬虔な信者・洗礼を受けに集まる人々、です。これは、たとえ男性であっても、神や神に遣わされたメシアを慕い憧憬れる信者は「花嫁」だと言うのは、もう、聖書のお約束みたいなものです。そうすると、旧約聖書の中の「雅歌」の恋人の歌も、神と信者との熱烈なラブソングと読めるんです。けっこう、艶っぽい詩が多いですが。雅歌も立派な聖書の一部なので、当然、聖務日課(教会の祈り)のテクストですし、厳粛な女子修道院で、お堅いシスターが、俯きながら(心の中で)顔を赤らめながら、唱えたりしているらしいです。が、このような内容が信仰に相応しくないわけではなく、神の愛とは本来、これほど激しいものなのであって、人間の方が勝手に取澄ました冷たいものにすり替えてしまっているのでしょう。

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January 07, 2005

【本日の福音】ルカ5:12-16より

今日は初金でした! 主の聖心(みこころ)を崇敬するため、おミサに与ることが勧められています。
そんなこんなで(?)、今日も投稿が遅れてしまいました。先が思いやられますねぇ。

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

さて、今日は、イエス様が重い皮膚病を癒す奇跡を行われた場面です。
この病人は、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願って、癒されました。この発言は、どこが正しかった(義とされた)のでしょうか?

病気でも何でも、本当に癒すことがおできになるのは、この世界を創造され、あらゆる自然法則を支配されている神おひとりだけです。神でないもの、偽預言者や偽預言者を助けている悪霊の類が、癒しめいた「まやかし」を行う時、直ったように見えて、実際には問題を他の部位へ転嫁しているだけで、そのしわ寄せで問題は却って悪化してしまいます。(例えば、不適切なダイエットで揺り戻しが来たり、多大な出費で不健全な財政状態に陥ってしまったり、対症療法にしかならない薬物に頼って副作用を招いたりするようなものでしょうか?)

そして、神は意志そのものでらっしゃるので、「そのようになれ」と願うだけで、被造物はその御意志に従います。つまり、神の御意志は実現します。(実現していないように見えるとしたら、人間の自由意志を尊重されているか、大変複雑に絡み合っている事象全体が関係しているために、実現までに時間がかかっているように見えているだけか、何か深いご計画があるか、のいずれかでしょう)

そして、この病人は、イエス様に対して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言い、自分が癒されると信じたのです。

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January 06, 2005

【本日の福音】ルカ4:14-22aより

╋主の平安!(今日は北米での「主の御公現(epiphany)」の祝日でした)

皆さん、こんばんわ~。今日は投稿が大変、遅くなってしまいました。
以前、「黙想の手引き」と筆が滑って書いてしまいましたが、この連載はそんな上等なものではなく、せいぜいのところ一信者の「分かち合い」・感想文に過ぎません。その辺、ご了承下さいね。
また、今日から聖書英語テクストの引用場所を、全米カトリック司教協議会のものに変更します。Bible Gatewayの方は、皆さん、ブックマーク(お気に入り登録)されましたよね?

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日は、イエス様が故郷ナザレの会堂でイザヤの預言を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、(中略)実現した」と語り始められた場面です。福音では、この直後、ナザレの人々から迫害される場面が続きます。

私はこの、「この聖書の言葉は、今日、 (中略)実現した」とイエス様が宣言される場面は、最高にシビレちゃうんですねぇ。イエス様は、このナザレの会堂以外にも、普段から、安息日には会堂に入り、時には聖書の朗読に当たることも多かったことでしょう。実際、今日の福音の直前の箇所では「諸会堂で教え」られた、とあります。しかし、「この聖書の言葉は、今日、 (中略)実現した」と宣言されたことが記されているのは、この日だけみたいですね。いにしえより待ち望まれた救いの約束(預言)の実現を目の当たりにできた人々は、なんと恵まれていることでしょう! 本当に羨ましい限りです。

しかし、それも私の「岡目八目」なのでしょうか。 (^_^;) 幼い頃からよく知っている(場合によっては、「オムツだって取り替えてやったことのある」!)人物がメシア・救い主だなんて、きっと誰でも信じられないのでしょう。ナザレの人々は、せっかくメシアの到来を目撃しているのに、認めることができません。まだ来ていない、 (人間の限られた知恵を基準にして)もっとありがたい存在がメシアだと、何かもっと遠いものを期待しているようです。このあたり、『青い鳥』の教訓を彷彿とさせますね。(だからと言って、目の前にあるもの何にでも飛びついて、例えば、偽預言者だとかをメシアだと崇める態度もまた、困りものですが)

ナザレの人々は、イエス様がカファルナウムの町で行われたような癒しの奇跡をやってもらいたかったのでしょうか。メシアだという証拠を求めたのでしょうか。邪まな人々は、神から来たものでさえ信じたくないがために、頑なに徴(しるし)を求めようとしますが、しかし、別の箇所でイエス様が仰られているように、「ヨナのしるし以外与えられない」のです。カファルナウムでなされたような癒しの業は、小さき人々を見ては黙ってはおれないイエス様の慈しみの気持ちから出た、いわばサービスなのでしょう。聖トマスに言われたように、「見ないで信じるものは幸い」です。

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January 04, 2005

【本日の福音】マルコ6:45-52より

英文テクストはこちら↓
New American Standard Bible版テキスト

祈られるイエス様昨日の「パンの奇跡」に続いて、今日の福音は、イエス様が湖上を歩かれる場面です。
この節もそうですが、イエス様はよく「祈るために山へ行かれ」ますね。神であり、神のみ言葉そのものであられるイエス様も、人として地上で生活されておられた時には、御父なる神様と語らう為に時間を割かれました。「時間を割く」とは、「その人の為に献げる」と言う事です。私たちも、正しいものの為に、時間を割きたいものです。(…ああ、自分で書いていて、耳が痛いや…)

さて、湖上を歩く主・イエス様を見て幽霊だと勘違いした弟子たちに、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と仰られます。イエス様は真の神で、悪魔でさえ、その命令には逆らえません。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」弟子たちは、イエス様のことを「先生」と呼びながらも、イエス様が「主」である真の神、「主の僕」である約束されたメシアであることを飲み込めないでいました。聖霊降臨後の世界、聖霊を受けたこの時代(終わりの世)に生きている私たちは、その点、 聖霊によって主が真の神であることが識別できるように教えられているので、幸運だとも言えます。
しかし、多くのことを知らされているだけ、カトリック信者の責任は重大です。多くの恵みを受けながら、神の救いのご計画に協力しないカトリック信者は天国であまり良い場所を与えられない、とも、神から離れてしまったカトリック信者は異教徒で罪を犯した人々よりも重い罰を受ける、とも聞いています。「神の救いのご計画への協力」とは、例えば、未信者・異教徒の救いや罪を犯した人(煉獄の霊魂を含む)の赦しの為に執り成しを祈る、とか、侮辱(=メシアとして、傷ひとつないこの上なく完璧な「過越しの子羊」として、愛ゆえに人々の救いの為に、十字架にかかったことを正当に評価されないこと)を堪え忍んでおられる御聖体の中のイエス様をたびたび訪問してお慰めする、とかが考えられるでしょうか。

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【本日の福音】マルコ6:34-44より

英文テクストはこちら↓
New American Standard Bible版テキスト

マルコの福音書では最初の「パンの奇跡」の場面です。(2回目の場面は、 8:1-10)
私事で恐縮ですが、まだカトリックの洗礼を受けていなかった頃、国立大学の法学部にしては珍しく、クリスチャンの教授が多くいらした(最低3人はいましたね)中に、学内で定期的に「エマオ会」と言う、聖書を読む会を開いていらっしゃる先生がありました。その先生のお人柄もあり、珍しさも手伝って、その会に初めて顔を出してみた日のテーマがここでした。当時は、「主の晩餐」の意味も(ダ・ヴィンチの絵は知ってましたけど)、当然「御聖体(Corpus Christi)」のことも、何にも知らなかったので、こんな超能力めいた奇跡の話が一体どんな教訓をもっているのか、ちんぷんかんぷんだったことを憶えています。
もちろん、これは超能力の話がテーマなのではなく、来るべき「主の晩餐(あるいは、主の食卓)」と「御聖体」の秘跡の前表(ゼンピョウ、まえじるし)になっているのですが。(ほんの少しだけルールを曲げて、聖書を引用しますが)「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ」なんて、ホントに今のおミサの情景そのままです!
最後の「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」のくだりは、実に象徴的です(多分、「5つのパンと2匹の魚」自体にも象徴的な意味があるんだと思うんですけどね)。「12」は今のEUの旗の星の数にもなっている通り、マリア様の冠の星の数ですが(→「ヨハネの黙示録」12:1)、もちろん、十二使徒の「12」でもあります。「でもあります」と言うより、マリア様の被られる冠の星は、マリア様を中心として祈った使徒たち、つまり後の司教職にある高位聖職者を中心とした、「キリストの神秘体」である全教会そのものを表わしているのでしょうから、当然なのかも知れません。(旧ユダヤの十二部族に対して、この「教会」や新しい「12」部族のことを「新しいエルサレム」とも「新しいイスラエル」とも言いますよね)

なんか初日から長くなってしまいましたね。おまけに、黙想の手引きと言うより、要理の復習のようです(^_^;)
それでもまぁ、なんとか続けていきましょう。

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【本日の福音】はじめまーす

さて、多少、日記的投稿でも続けられるように、新しいコーナーを始めることにしましょうか。題して、【本日の福音】。
主日のミサでいただく小冊子「聖書と典礼」には、巻末に、その一週間に朗読される聖書の箇所が掲載されています。が、今回利用するのは、それをさらに簡略化したカトリック手帖(四谷交差点のサンパウロや、麹町教会=聖イグナチオ教会の売店でも売ってます)バージョン。 (^_^;) こちらには、福音の朗読箇所しか掲載されていませんが、これで十分です。

なぜなら。

私め、ラファエラ姉さんには、2000年12月2日に、フリーのホームページサービスgaiaxで始めた新コーナー 「日々の聖句」が三日坊主ならず、たったの一日で頓挫してしまった、と言う苦い経験があるからです…。
思えば、毎日聖書を開き、ラテン語の勉強にもなり、人にも教えてあげられる、あわよくば福音宣教の場に…、と一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなるかもしれない、グッドなアイデアだった筈なんですが、最初から燃え尽きてしまってはいけませんよね。 打倒!BurnOut症候群!!  ニフティのヴァーチャル庭園も枯らしてしまった(に違いない)過去をもつ私。今度こそは続けたい…。(あ、今日の朝刊に載ってたボールペン字講座も始めちゃおうか、一日20分だと言うし…;…なんて、筆記具3点セットに釣られたのがミエミエですね。異業種交流会等で白い万年筆持ってる私を見かけたら、笑ってやってください(*^_^*)>)

…はあはあ。最初からやけにトーンが上がってしまいましたが、肩の力を抜いて気楽に始めましょう。

現在、カトリックとプロテスタントの両方で共通に使われている聖書『新共同訳』は、本文を引用する手間が省けて楽です。と言うのは、私が聖書全文データベースCD-ROMを購入したから、ではなく、この新共同訳を始め、正統派の日本語訳聖書には、すべからく著作権が付いているからです。著作権の付いているテクストの引用は、著作権者へのご挨拶(許諾)がルールです。それは面倒くさいので、最初から引用を省略してしまおう、というのが、今回取り入れた方法論です(-_-;)
[※ それに日常的に、勝手な引用に悩まされているので、自分は人様のものを勝手に引用したりはしないぞ、と言うマニフェストだったりもします <耳が痛い読者さんもいらっしゃいますか~?]

でも、それではあんまりにも不親切なので、も少し歩み寄りましょう。
こんなのはどうでしょう:ネットから検索・コピペ一切自由な英語の聖書テクストへのリンクをつけます。そう、Bible Gatewayです。これなら、英語の勉強にもなって、一石二鳥でしょう! …それにしても、海外の聖書サイトはこんなにも充実しているのに、日本の聖書協会は…(溜め息)

…さぁ、始めるぞぉ~っ!

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