聖書

January 08, 2007

主のご公現、おめでとうございます!

さてさて、昨日の日曜日(1/7)は、クリスマスの次の次の日曜日で、星(星占い)の導きだけを頼りに、別々の国から(連絡を取り合うこともなく)、ベツレヘムの町の馬小屋の飼い葉桶の中に眠る幼子イエスを礼拝しにやって来た、東方の三博士(三賢者)を記念する「主のご公現」(Epiphany)のミサがありました。

東方とは言いますが、北アフリカの方からやって来た博士もいたようで、言われているように必ずしも、ペルシアのゾロアスター教の祭司だった訳ではないようです。

この三人の博士は、青年の博士はメルヒオール、壮年の博士はバルタザール、老人の博士はカスパール、と言う名前だったと伝えられていますが、それぞれ、王様への贈り物にふさわしい「黄金」と、神に仕える祭司への贈り物にふさわしい「乳香(にゅうこう)」と、受難によって死に至る預言者への贈り物にふさわしい「没薬(もつやく)」を携えてやって来ていて、赤ん坊であるイエス様にお献げしたのでした。

…ところで、この三博士の名前、どこかで聴いたことありませんか? そう、「新世紀エヴァンゲリオン」のNerv(ネルフ)本部の地下に設置されている三台のスーパーコンピュータの名前ですよね。赤木律子博士のお母さんの「科学者として/女として/母親として」の心が籠められていたんでしたっけ?

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January 01, 2007

明けましておめでとうございます

A Happy New Year!

新年明けましておめでとうございます!

昨年は、職場が変わったこともあり、あまり更新できませんでしたが、今年は、できる範囲でやっていこうと思います。

今年の年賀状です↑

引用の聖句は、使徒言行録の10:11-12から。

聖ペトロが空から動物満載の風呂敷が下りてくる幻を見て、神様より「神が清めたものを、清くないと言ってはいけない」 とお叱りを受ける場面です。

つまり、申命記で挙げられた、食べていけない豚や猪のような動物も、食べて良いのだ、と…

(って、シシ鍋を食べる口実!?)

…ともあれ、今年もよろしくお願いいたします。

 

 

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November 06, 2006

パンの奇跡、…じゃなくて、季節

パンの奇跡、…じゃなくて、季節

さて、先の投稿で触れた「エバンジル会」では、私の出席した回だけ、亡くなったベジノ神父様の回も数えて、マタイの福音の「パンの奇跡」 (multication de pain)の箇所を、5~6回は読んでいると思うんですが、毎回、「…あ、そういう意味があったのね!」 と、新鮮な驚きがあります。

ですが、今日のお題は、「パンの奇跡」ではなくて、「パンの季節」。

秋です。

気が付いてみれば、暑さに息も絶え絶えだった残暑も過ぎ去り、長袖の上着無しでは外を歩けない寒さになってました…。

 で、秋、とくれば、ふjiぱンのプレゼントの季節です。

話がぶっ飛ぶようですが、2002年に京都から横浜に移って来て、(京都で「レジオ・マリエ」の会員だったように) どこのグループにコミットしようかと、「エマヌエル共同体」その他のグループを「見学」(?)させていただいていたのですが、今年7月に 「カルメル在俗者会」との「接触」を始めて(「接触期間」1?2年で入会資格が発生;私の場合、7月は遅刻したので、 資格カウントは9月からで、入会の儀式は7月と1月の年2回だけなので、最も早く入会できて再来年の1月)、最近グッと、聖務日課(= 「教会の祈り」※)やら、聖書やらの蔵書も増えて来たので、皆をまとめてしまっておけて、しかも、お祈りの時に持ち運びしやすい、 カチッとした形のバッグを、探していたところだったのです。

※カルメル会固有の「教会の祈り」や「賛歌集」 がある他、1、2年ほど前から四ッ谷のエンデルレ書店に置いているラテン語の聖務日課も集め始めた…、と言うか、 季節毎の5分冊になっていて1冊1万ほどするそのあまりのバカ高さに「Ⅳ 年間第18-29週」―今年はもう、終わってしまつた… (+_+)―の1冊だけ買って頓挫しているものもあるので…

その点、今秋のふjiぱンのバッグは、まさに、うってつけ。

しかも、無印良品とかで探して買って来ようと考えていた矢先、今月は色々とイベントが多く、モノ要りの時だっただけに、 タダで手に入るなんて、時宜にかなった天からの助けですぅ?

…あ、「フランス語で聖書」に追記ですが、結局、無料ダウンロード版「La Bible Online」には、「ルイ二世」訳版と 「種蒔く人」?訳版しか入っていないので、格調高い文語カトリック訳と言われている「エルサレム」訳版 (ペーパーバックは持っているのですが、やはりデジタル版の方が検索が容易です)の入っているCD-ROMを注文してしまいました…

(Premiumの方でも、日本円で送料込みで7?8000円程度;安価版でも本体3900ユーロ位)

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November 04, 2006

フランス語で聖書

先の投稿で「La Bible Online」にちらっと、触れましたが、今、「エバンジル会 ~フランス語で聖書を読む会~」 と言うのに、週一回参加しています。
(詳しくお知りになりたい方は、NHKラジオフランス語講座テキスト4月号等掲載の広告をご覧下さい)

私の知り合いでカトリック信者の方には、えらく語学に堪能な方が多くて、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語等々、 さまざまな外国語に造詣の深い、カリスマの与えられた方がいらっしゃいます。中には、ヘブライ語・ クロアチア語でロザリオを祈ることのできる方まで!

その中で、大変英語の堪能な方が一人、「自分は英語を、主の栄光を表すこと以外の為、特に、金儲けには使わない、と決めている」 と豪語されていらっしゃっていて、英語を使わずには働けない私など、「ひぇ~、すごいなぁ~!」と感嘆してしまうのでした。

が、私も振り返ってみると、仕事に英語・ドイツ語・オランダ語(?;…使ったって、言えるのかなぁ…)を使ったことはあっても、 フランス語・イタリア語でお金をいただいたことはない。
それなら、仏文科時代に培ったフランス語とラテン語、そしてイタリア語(…えらく拙いものですが…)の語学力なら、 神さまの為にお献げすることができるかも知れない…。

そんなこんなを考えて、京都から横浜に移り住んで以来、「エマヌエル共同体」や「エバンジル会」に顔を出して来たのですが、 ここ1~2年の失業中、すっかりご無沙汰してしまっていました。

で、今年3月、新しい職場で働きだしたのをきっかけに、新年度から「エバンジル会」に心機一転、出席。
今度はかなり出席率が良く、いい滑り出しで、ベジノ神父様の授業の最後にフランス語の聖歌を練習して、主を賛美できるのも楽しく、 1学期の最終日には過分の褒め言葉まで戴いてしまって、恐縮…。

大変、良い感じで夏休み後の再開を楽しみにしていたのですが、その肝心のベジノ神父様が7月26日に突然、帰天され、 私は大変な失意とショックとで気持ちが塞がってしまって、とうとう神父様のお通夜にもお葬式にも行かれず、最後に神父様にご挨拶したのは、 9月11日に行われた「エバンジル会」主催の追悼式でした。
(そうこうするうち、今度は、9月24日には「癒しのミサ」でお世話になったマッコイ神父様(ベジノ神父様と同じく、イエズス会)まで、 お亡くなりになって)

せっかく、東京で働く暮らしでの心のオアシスとして楽しみにしていたベジノ神父様の「フランス語で聖書を読む会」が、 神父様の死でなくなってしまうなんて…、あまりにもあんまり!

と、思っていたら、「エバンジル会」のスタッフの方々のご尽力で、新しい神父様を講師にお迎えして再開する運びに。

…しかし、引っ込み思案で人見知りする私は、新しい若い神父様に馴染めない…。
う、う、う、ベジノ神父様~!

…と、泣いていた訳でもないのですが、10月、「パードレ・ピオの集い」に久し振りに参加した帰り、 こんな時でもないと立ち寄れない四谷のエンデルレ書店に寄って、いろいろお祈りの本やら物色していると、ハードカバーで分厚くて、 カラーのインフォメーション(聖地の写真等)やら解説が付いた、素敵なフランス語聖書(旧約続編付き)が一冊だけ、置いてある。
ちょっと表紙が汚れていたけれど、愛用するのには何の支障もなさそう。
「エバンジル会」で使用しているテキストは、口語の新約聖書のみの版だけれど、これは同じ口語の新約聖書に詩編は勿論のこと、旧約も、 カトリックで使う旧約続編まで付いているし、こ~んなに至れり尽くせりの分り易い聖書は、きっと、天国のベジノ神父様からのプレゼント、 「自分がいなくても、聖書の勉強に励みなさいよ」と言うメッセージに違いない!、と感じて、ほとんど衝動買いでしたけど、早速買い求め、 当日の福音から読み始めました。

そうこうするうち(…って始まる段落、前にもあったような気がしますが)、そう言えば、 フランス語で聖書を朗読してあるCD-ROMなんて、無いのかしらん?、と言う考えがふと、脳天をかすめる日があって、ネットで検索すると、 銀座の教文館書店にヘブライ語とかが有るような無いような…(あるなら、もう、フランスのサイトから、インターネット通販でもいいのですが… )

どっかにないかなぁ…、と探していて行き当たったのが、前述の「La Bible Online」なんです。
もっとも、この音声機能を使うためには、CDを入手しないといけないみたいなんですけどね。

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February 23, 2006

【ニュース】玩具メーカー重役が大学病院へ寄付

任天堂相談役が70億寄付 京都大に新病棟建設(2月21日18時15分付共同通信)

ここのところ、暗いニュースばかりですが、久々に良い話を聞いたなぁ…、と思って、おすそ分け。

企業の重役が公共機関に寄付、と言うと、贈収賄か売名を連想しますが、これはそうじゃないみたいです。

アメリカには、企業経営者が私財を投げ打って、後進の教育の為に(後に世界的に名門となるような)大学を創立したり、 そういう大学には同窓生らからまた多額の寄付が集まったりしていますが、日本ではあまり聞きませんよね(慶応とか同志社とかは、 同窓生がいっぱい寄付してそうですけど)。ソフトバンクが大学作るらしいですけど、それは会社の戦略の一環なんじゃないですか。

私もいっぱい寄付できる位、稼いでみたいっ!…って、違うか。「やもめの2レプタ(レプトン銅貨2枚、1クァドランス)」 (マルコ12:41-44)ですよね。
…と言う訳で、「クリック募金」よろしく!(^_^;)

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February 16, 2006

あちこちに、RFID

今日(日付変わって、既に昨日)のテレビのニュースで、無線ICタグを使った仮想メーク実験について報道されていましたけれど、 その話も含めて、国内外でのRFID関連情報満載のサイトは、コチラ

 

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January 16, 2006

とってもXファイル

京都の友人がこの週末から東京に来ていたので、一緒にイグナチオのミサに出ることにして、地下鉄丸の内線の車内で、とってもシュールな話を聞きました。

あの、ロズウェル事件の際、墜落したUFOと思しきものに乗っていらしたらしい瀕死の方の為にカトリックの司祭が呼ばれ、かのお方に「終油の秘蹟」(今の、「病者の塗油」と言う、重病人の回復と最後の罪の赦しを祈る秘蹟に当たる)を授け、そのことで、その司祭がスペルマン枢機卿から叱責を受けたんだったか、はたまた、その秘蹟を授けた司祭がスペルマン枢機卿だったか、ちょっと忘れたんですが、とにかく、Little Green Manがその秘蹟を受けたらしい、と言うのが話のあらすじ。

で、ちょっと哲学的?な議論になりまして、
「この世に宇宙人というものがいるとしたら、それは被造物に間違いないね」
「で、次に問題となるのは、宇宙人が、犬猫のような動物なのか、秘蹟が有効な人間なのか、と言うことで」
「それって、霊魂の有無で決まるかな」
「動物って、霊魂ないの?」
「霊魂の有無って、どうやってわかるのかな」
「木のお医者さんは、樹木の気持ちがわかる、って言うで」
「ほれ、サボテンかて…」
「うん、うん」
「機械の気持ちが判る人もおるで」
「人間ってさぁ、何でも、自分に似せて意味を読み込む癖があるから、何の気持ちも判っちゃうんじゃないの?」
「点がいくつか描いてあったら、目鼻口に見える、とか」
「人の顔みたいなもんが描いてあったら、その顔に人格を読み込んでしまう…」
「たまごっちとか、世話してしまう人もおるな」
「そういうデジタルキャラや二次元キャラには、霊魂はないよね」
「二次元キャラ?」
「ほれ、サザエさん、とか…」
「ないやろ」
「でも、日本人なら、皆、サザエさんの性格は知ってる;サザエさんなら、こんなこと言いそう、だとか、カツオくんならこんな失敗しそう、とか…」
「だから、単なるキャラクターはアニマとは違う」
「キャラクターはペルソナ(=人格)とは違うよね」
「ペルソナの有無が霊魂の有無なのでは?」
「…で、宇宙人にはペルソナがあるんかいな?」
「…さぁ…」
「…当人(?)が救われたいと思っているかどうか、が、終油の秘蹟、あるいは、臨終の洗礼が有効かどうかの分かれ目なのでは」
「宇宙人は、救われたい、と思うのかな?」
「耳元で囁いて聞くのかな」
「(一人芝居)『あ、ちょっとちょっと、死にかかっていて大変な時に、失礼いたします、あ、声は出さないで、瞬きだけでいいですよ、あなた、主の御名によって救われたいですか?』」
「…そんなん聞かれても、うちの父親かて、『救われたい』とは答えんわ、と言うより、質問の意味が判らんと思うわ」
「本人が救われたい、と思ってないとかなぁ。うちの父親も、前、家族で外出した時、情宣カーが『神と和解しなさい』ってガナリ立てて通りがかって、それに向かって『神さんと喧嘩した覚え、ないわ』ゆーてたで」
「うちの父親だって、もうあちこち故障だらけやけど、体が治って欲しいとも思ってないわ、ただ、飲む薬が欲しい、と思ってるだけで(ライナスの毛布やね)。『救われる』の意味が判らんと思うわ」(発言者順不同)
ってな感じで。

皆さんは、どう思われます?(「判る訳、ないやろ~っ!」って、突っ込まれそ…)

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January 12, 2006

リンボって…

※ この記事は、Seesaaブログ「法令第1条!」 での2006年1月7日付け記事 「【児童関連法】母体保護法・優生保護法・国民優生法 第1条」に付した追記に加筆の上、再掲するものです。

日本で公表されているカトリックの教義ではちょっと不明なんですが、洗礼を受けずに亡くなった乳幼児の霊魂は「辺獄(Limbo)」 (天国と地獄の間にあって、地獄の苦しみはないが、神を見ることもない場所)に行くものと伝統的に考えられて来ました。 この概念について近時、 「辺獄(Limbo)」概念の見直しを迫る要請が国際神学委員会から出されたようです。 (ロイター発2005年11月29日付け記事による;…ちょっと、浦島でしたかね…)

したがって、教会の教義がどうなるか、今後、見守っていかなくてはならない訳ですが、堕胎された胎児は当然のこと、 自己の意思表示など到底できない乳幼児を、 善悪の判断ができる年齢に達していながら受洗しないでいる子供たちと同列に論ずることはできないと思います。

そして、何も言わず黙って殺された胎児は、いわば「血の洗礼」をくぐり抜けた「殉教者」です。それゆえ、12月28日の 「幼子殉教者の祝日」には、Seesaaでのブログ「法令第1条!」において、法令上の堕胎にも触れておかなければ、 と言う思いに駆られたのでした。

ボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエ村に出現された聖母のメッセージ( 『メジュゴリエの証言者たち』ドンボスコ社刊、所収の脚注参照のこと)によると、堕胎された胎児の霊魂は、 天国のマリア様の許でお世話されている、とのことです。

子どもとして当然に享けるべき愛情を与えられるどころか、自分の持ちうる全て(それも、たったひとつの生命と、 十分な発育を全く遂げていない小さな、小さな、小さな体)を献げ尽くし、自分を殺した両親(そしてそれに手を貸した医療関係者等) の改心と和解の為に祈り続けている小さな小さな堕胎児が、何の良い報いも受けないなんてことはあり得ないことです。

で、当然、「幼子殉教者」としての胎児は天国に入り、(煉獄での浄めを経由するにせよ、あるいは、大変な改心と完徳の努力によって、 聖人として死後直接、天国に入るにせよ)遅れてやって来ることのできた両親と相まみえることになります。両親は、自分たちの殺した子どもの、 えも言われぬ美しさを目の当たりにすることになるでしょう。その時、殺された子どもたちが、 その両親と涙のうちに抱き合うことができますように。

また、聖書の黙示録21章に描かれている「万物一新」の際には、この子達は、この世では得られなかった肉体、 それも特上のものが与えられるはずです。その辺りの事情のヒントとなることが、ある本に書かれていたのですが、それはまた、【読みかけ日記】 等のコーナーでご紹介することにします…。

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January 01, 2006

あけましておめでとうございます

皆様、明けましておめでとうございます。
思い起こせば、1年前にココログでブログを始めてから早1年。
途中、激しく更新をサボりながら、何とか続けてまいりました。
で、年賀状です↓
New_Year_Card2006
(クリックすると実物大の画像が表示されます)

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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December 30, 2005

【本日の福音】ルカ2:22-40

いやぁ、久しぶりですねぇ~~、「本日の福音」。もう、半ば、「本年の」福音、に化しつつありますが。(^_^;)
多分、これが(バックデートでの投稿を除き←と言うのも、まだ未提出の宿題をこれからでも間に合わせる希望を捨てていないから、ですが…)本年最後の「本日の福音」になるでしょう。

さて、本日は「聖家族」の祝日です。例年、主の御降誕の次の主日にあたる移動祝祭日ですが、今年は御降誕が主日にあたり、年内にもう日曜がないので、本日祝うことになっています。

で、「聖家族」のミサで読まれる朗読箇所でいつも耳が痛いのが、第一朗読の「シラ書 3:2-6、12-14」の

「子よ、年老いた父親の面倒を見よ。
 生きている間、彼を悲しませてはならない。
 たとえ彼(=父親)の物覚えが鈍くなっても、思いやりの心を持て。
 自分が活力にあふれているからといって、彼を軽蔑してはならない。」

と言う箇所なんですが、幸い(?)今日はB年。第一朗読は「創世記 15:1-6、21:1-3」です。

…ですが、このコーナーで取り上げるのは福音だけなので、今日取り上げるのは、「ルカによる福音 2:22-40」です。(←リンク先は、例によって、全米カトリック司教協議会USCCB-NABの英文テキストですが、本日の箇所だけにリンクを貼ると、しばらくたつと該当ページが削除されてしまうので、ルカ書第2章全体にリンクを貼りました)

今日の朗読箇所は、第一朗読の「創世記 15:1-6、21:1-3」が長い(…ってほどでもないですが)せいか、朗読に長短2パターン用意されています。短いパターンでは、中ほどの老シメオンと女預言者アンナのくだりが省略されます。しかし、省略が多くとも、ミサの中で正式に朗読される福音なので、「立って聴いてるのが辛いんだけど、短くて良かった;神父様のお説教も短いといいな」…と思うのではなくて(^_^;)、ちょっとここで味わってみたいと思います。

あんまり短いので、(新共同訳の翻訳者の著作権を尊重して、いつも引用しないのですが)もう全部、引用してしまいたくなりますね。が、それは堪えて、要約してみると、律法に規定された産後の清めの時期を終えた聖家族が、律法の掟にあるごとく「初めて生まれた男子」を主に献げる為にエルサレムに上り神殿を詣でた話と、ナザレに戻って後の少年イエスの素晴らしい成長について記されています。

新共同訳では「初めて生まれる男子」となっていますが、上のUSCCB-NABでは、

「Every male that opens the womb shall be consecrated to the Lord」
胎(タイ)を開いた(=初めて子宮から出て来た)男子は皆、に献げられなければならない

と、より旧約での律法と直結した表現になっています。初子(ういご)の聖別と言えば、エジプトでの過ぎ越し(出エジプト記12:1-30)、(鴨居と入り口の二本の柱に塗った)過ぎ越しの羊の血によって主のものとして聖別されたすべての家の初子が「撃たれ」ずに助かった出来事を思い出しますしが、これを記念して、神様は「初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである。…あなたの初子のうち、男の子はすべて贖(あがな)わねばならない。」 (出エジプト記34:19-20)、と律法の一部となさいました。神への奉献は、言わば、贖い(=滅びる定めの人間が、金を積んでも買い戻せないその命を、神の御業によって救われること)の印です。そして、この贖われた男子、神の為に聖別された者として、救い主イエスは成長していくのです。

ところで、ここで、お生まれになった救い主の「芽を摘み取」ろうと、ヘロデ王はベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を全員殺させましたが、同じ年頃の男の子であるイエスが、この時期(産後の清めの時期は40日間です)、エルサレムの神殿なんてウロウロしていて大丈夫なんだろうか?…、なんてちょっと疑問が生じました。
が、よく考えてみれば、ベツレヘム周辺だけでも2歳以下の男の子は数え切れないほどいたはずで、初子の奉献の為に、ユダヤ全土からエルサレムの神殿に参詣して来る家族は、もう星の数ほどもあったから、ちょうど、お正月の明治神宮の境内みたいな雑踏になって、とても男子殺害なんてやってらんなかったのかも知れませんね。
…だけど、東方の三博士の話をよく聞いていれば、メシアのお生まれになったのが何月何日で、その40日後は神殿にやってくるはずだから、その前後3日間、「公安警察」(?)を張り付かせておくこともできたかも知れなかったのになぁ…、とも思ったりして…。
…ま、でも、神殿なんて神聖な場所で(人の)血を流すなんてことは到底、無理でしょうけどね。

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December 12, 2005

お引越し!

Google系の、英語ネイティブのブログサービス「Blogger」で書き始めたきり、三日坊主になっていた英語のブログ「Raphaella's Diary」をココログにお引越しして来て、名前も新たに「Puppy under the Table」として再出発することにしました。

ココログは英語ネイティブのサービスではないので、サイドバー等の表記が日本語のままで(*)、何とかカスタマイズできないものか模索中ですが、当面このままで行きます。

なぜ「Puppy under the Table」かって?
そりゃあ、あなた、来年は戌年、来年の年賀状のデザインを考えていて、仔犬は可愛いなぁ…などとツラツラ考えていまして、自作の年賀状を刷る時にはいつも、何かしら信仰に関係した図柄にしようとして来たので、「もう、これっきゃない!」と思ったわけです。やはり、私も日本人、古くからのイスラエルの民たるユダヤ人にしてみたら「異邦人」、でも、「仔犬でもご主人様のパンくずをテーブルの下で拾って食べます」(Mark 7:27-28)と言う、あのフレーズがピッタシ来るなぁと思うわけですよ。

ええと、私自身の英語力はかなり拙いので、どうせ中身のある長いテキストは書けないので、全訳する手間なんてほとんど無いはずなんですが、日本語で訳を付け出すと、英文原文にない余計なことまで、言わずもがなの解説とか付けたりしそうなので(※)、止めときます。その代わり、難しいことは書かないつもりなので、辞書無しでも読めるでしょう。(^_^;)

※ 実際、「Puppy under the Table」の最初の記事のオリジナル英文は、内容的に言って、上記(*)位までのものなのに、もう、日本語で余計な解説・タイトルの由来みたいなものを長々と書いてしまったでしょう?
同じこれだけの内容を、英語で書けない自分の語学力の拙さが情けないです…(シクシク)

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March 27, 2005

御復活、おめでとうございまーす

いやぁ、御復活ですねぇ〜。おめでとうございます。

まだ風邪が治り切ってなくて、おまけに花粉症がますますひどくて、いまだにパソコンの電源を入れていないんです。
ちょっとこれは、94年観測開始以来の、「自分のパソコンをいじらなかった日数」の記録になるかも知れません。

さて、御復活です。
ハリストス教会=ギリシャ正教では、まだのようですが、西方教会=カトリックとプロテスタントでは、今日(春分の日の直後の日曜日)が、御復活です。

この双方の食い違いは、(西欧世界がグレゴリオ暦を採用して以来の)暦の違いに基づくものだそうです。

バッスーラ・ライデンと言う昨今の預言者の本("True Life in God"『神のうちの真のいのち』)によると、主は御自分の神秘体である教会が一致し、同一の日付で復活を祝うことを望んでおられる、と言うことだそうですが、では、どちらの日付が正しいのかは、その本では教えてくれません(多分)。

ちなみに、この預言書(私的啓示)は、教会の正式に認めたものではありません。
(ただ、東西両教会の一致のために、両教会当局・高位聖職者らと精力的に対話を続け、祈りの集いを行っているようです)

そう言えば、「異なる日付」で思い出されるのが聖母の誕生日です。

現在、カトリック教会では、9月8日にお祝いしていますが、ボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエ村に御出現されたマリア様は、村の子供達に、本当の誕生日は8月6日(5日だったかな?)である、と告げたそうなのです。
これも、暦ゆえの食い違いなのかしらん?

こちらの御出現も、教会未公認ですが、御出現そのものが現在もまだ続いているため、真贋の鑑定をするにも、まだ調査ができないでいるようです。
私的な巡礼は認められており、パパ様(教皇ヨハネ・パウロ二世)の祝福についても、どこかの本で読んだことがあります。

もう一つ、誕生日と言えばクリスマスですが、こちらが主イエズス(日本のカトリック教会でも公式には「イエス」ですが、伝統的に「イエズス」と言う表記や呼称に慣れ親しんでいるのは、ラテン語からの音訳だからです)・キリストの本当の誕生日「ではない」ことは広く知られています。
が、本当の誕生日がいつなのか、については、「羊飼いらが野外で夜通し羊の番ができる季節だろう」ぐらいの話しか、聞いたことがありませんでした。
それが、最近、スカパーのディスカバリー・チャンネルの番組の中で、聖書に現れる東方の三博士についての記述の、占星術的な解読と天文学による天体の位置の割り出しとで、正確な日付を計算していたのです。
それによると、本当のクリスマスは、紀元前6年の4月17日だそうです。
となると、その半年前とされている洗礼者ヨハネの誕生日も、10月17日となり、全く夏至なんかじゃなくなりますし、「聖ヨハネ祭の夜」なんてロマンティックな響きもなくなるだろうし、抗鬱作用があると信じられているサプリメントの「セントジョーンズワート」(夏至の頃に花が咲くから、らしい)も名前を変えなくちゃいけなくなりますね。

さてさて、マリア様の本当の誕生日については、聖書の中にもヒントがなさそうなので、天文学的に計算してみせる、と言う訳にもいかないようです。

御復活のお祝いだけで、すぐ終ろうと思ったのが、長くなりました。
ま、何はともあれ、おめでとうございます!

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February 21, 2005

【本日の福音】ルカ6:36-38

いやぁ、はっはー、もう、す~~~っかりご無沙汰してしまいましたねー、【本日の福音】。とうとう、「今月の福音」に近づいて来た感があります。

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)
※どうも、「ルカ6:36-38」へのフラグがないみたいで、今日は、福音だけでなく、第1朗読・詩編も含めた朗読箇所のページを使います。 (と言ってるうちに、年末となり、朗読箇所のリンクが無くなってしまったので、ルカ第6章全部載っているページのリンクを貼っておきます。2005.12.12)

今日扱うのは、イエス様が「御父のように憐れみ深い者になりなさい」「人を裁くな」「人を赦し、人に与えなさい」と教えられる場面です。

とても難しい教えです。言葉は簡単ですけどね。特に「人を裁くな」が難しいのではないでしょうか。
日本人は、西欧ほど個人主義が強くない代わりに、義憤に駆られる人・正義感の強い人が多いと言う気がしているのですが、洗礼を受けてクリスチャンになろうと言う人は、何がしか、善悪だとかこの世の不正義ということに敏感で、人一倍正義感の強い人が多いのではないでしょうか。しかも、自分の潔癖さに人の何倍も気を遣うあまり、他人を断罪してしまい、 真に断罪する権限をお持ちなのは主お一人だと言うことを忘れ、傲慢の罪に陥ってしまうこともよくあるような気がします。
実際、カトリック信者同士でも(と言うより、金持ちもいれば貧しい人もいる人間社会の縮図のようなカトリック信者だからこそ、と言うべきかも知れませんが)、気心知れた者同士が面と向き合えば、そして周囲にシスターや神父様が見当たらなければ、とかく他人の批判に走りがちです。若い男性信者が主婦の井戸端会議のように雁首並べて他人の悪口を言い合っているのはあまり見たことがないのですが(もっとも、そんなタメ口を聞く様な男性信者の知り合いはいませんけど)、女性信者だったらもう、告解ネタに事欠かないんじゃないか、と思うほど日常茶飯です、マジ。ああ、反省、反省、反省しきり、です。
多分ね、口を開く時には他人の悪口を言うようなつもりはないのでしょう。共通の知り合いにちょっと心配な人がいる。こんな問題行動・発言があった。ああいう態度は注意した方がいいのではないか。あの物言いは人を傷つけるのではないか、配慮に欠けるのではないか、云々かんぬん。私も相当、お節介焼きな方ですから、喋り出すと、他の人について見た話・聞いた話があれよあれよと次から次へと出て来てしまいます。「良かれ」と思って、後々、その対象の人に会った際に教え諭す・気をつけて見守るつもりで話題に上げるのですが、結局、肝心の隣人的助言は後には続かなくて、その前段階の根回し・情報共有で終わってしまって、喋った後はなんだか自分が良い信者であるような気がして、スッキリ、なんてことが往々にして起こりがち。
これでは排泄行為と変わりませんね。汚いものを放り出して、カタルシス。大事な祈りが伴わない。
カトリック信者は、まず、祈りの人でなくてはなりません。議論や作業に取りかかる前に、まず膝まづいて(そこまでしなくても、最低、十字の印を切り) 祈りを捧げ、正しい判断ができるよう聖霊の照らしを乞うのがあるべき姿でしょう。信者仲間での会食でも、食前の祈りを忘れることもしょちゅうだし、なかなかできませんけど。
しかし、悪魔が聖母に化けてある神父に現れた時に、誘いに乗る前に「まず一緒に祈りましょう」との神父の促しに、悪魔が正体を現し、悪態をついて去って行った、と言うエピソードが、何かの聖人伝にありました。
祈りは識別の第一歩です。告解しさえすれば何もかも赦されると思うのではなく、そもそも罪や過ちに陥るのを防ぐために、たとえ一瞬でも心を神に揚げる習慣をつけることは、とても大切なことだと言う気がするのです。そしてそれは、聖堂に入る前に額に聖水を付けて十字を切るより、もっと大事なたしなみなのではないでしょうか。((-_-;)自戒、自戒!)

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「パッション」再び

passionアメリカでは昨年の四旬節と共に公開されたのに関わらず、日本では翻訳のせいか、季節的には聖霊降臨~と言う5月まで待たされた映画『パッション The Passion of the Christ』ですが、昨年12月23日のDVD発売後、ここに来て(四旬節だから?)、俄然、話題を呼んでいるようです。映画『パッション』について語られているサイトを集めてみました。(ブログばかりではない上に、これだけ多いと、とてもトラックバックし切れません~)

映画パッションの解読 メル・ギブソン監督
http://www.kabasawa.jp/eiga/other_films/2004/passion/passion.htm
 ※映画『パッション』について徹底的に解読されているサイト(メルマガ?)。勉強になりました。

Art Greyさんのブログ:「 “The Passion of the Wife” メル・ギブソンの『パッション』、そして私の受難」
http://artgrey.tea-nifty.com/artgrey/2005/02/the_passion_of_.html
 ※いやぁ、笑いました。奥様はミッションスクール出身で予備知識があるが、まるでキリスト教的予備知識ゼロな旦那様になまじ『パッション』を見せてしまったばっかりに繰り広げられる受難劇…。こんな熱心な家族が私にも欲しいです(^_^;) うちの母は、まぁそこそこ内容についての質問もしてくれますが、父はまるで覚えてないでしょう。「そう言えば、昔こんな、犯罪人の男が十字の柱に着けられて処刑される映画があった」なんて言ってます。『十戒』を見たときも、「そう言えば、昔こんな風に海が裂ける映画があったよ」なんて言ってました(その、「昔の映画」がこれだってば)。

うさくささんのブログ「うさくさ日記」より『パッション』
http://plaza.rakuten.co.jp/usakusa/diary/200502060000/
 ※まるで未信者さんであられる「うさくささん」のシンプルな感想に好意を持てます。そう、聖書の知識が無いと確かにしんどい映画ですよね。

cinema note+ パッション
http://blog3.fc2.com/gael/blog-entry-12.html
 ※「タンタン」さんのブログ。こちらも淡々とした虚飾のない感想に、言葉にならない「衝撃」が伝わってくるようです。

T-LOOK Studio Black Blog: 『パッション』
http://t-look.cocolog-nifty.com/blog/2005/01/post_17.html
[映画] パッション-Pocket Warmer
http://blog.drecom.jp/atsushi_009/archive/192
 ※こちらの2つのブログもたくさんのコメントを集めてますね~。

iandeth.: メル・ギブソン監督映画「パッション」
http://iandeth.dyndns.org/mt/ian/archives/000081.html
 ※ご夫婦の間でのコメントもいい感じです。

ひらりん的映画ブログ:「パッション」
http://blog.goo.ne.jp/hiralyn/e/7f322ba26beb6902a4d08cdd45a18999
 ※このブログは力作ですねー。オフィシャルサイトと見まごうばかりのセンスの良さです。え、ブログの投票もあるの?

映画「パッション」情報交換掲示板
http://www.passionforum.jp/
 ※こんなサイトがあるなんて知りませんでした。「情報交換」なんて言われても、あるがまま、表現されたままを受け取るだけの私に、何か新しい知見など提供できる訳でもなく、ただ、読むだけです(^_^;)

MARRE.JP/THE PASSION OF THE CHRIST
http://www.marre.jp/passion/
 ※ちょっと、ちょっと、上2つを上回るかも知れない超☆力作サイトです。最初、オフィシャルサイトかと思っちゃいました。「marre(マレ)」さんこと、牧師をされている「石井希尚(いしい まれひさ)」さんのサイト。

パッション -- 映画 「 パッション 」の詳細情報
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=319595
 ※こういう映画評と言うか、カスタマーレヴューのようなものを書き込めるサイトと言うのは、正直、読むのがドキドキです。必ずしも作品に好意的な人が書き込んでいる訳ではありませんし、この作品に中立的な立場なんて取れない私にとってはもう、半ば「怖いもの見たさ」の境地…。(ホラー映画はちっとも怖いとは感じないんですけどねぇ~)

パッション(2004) のシネマレビュー(JTNEWS)
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=9027
 ※ブログではなく、映画の感想を集めた掲示板。貴重な声がたくさん。ちょっと、読みきれないので、このページを仕上げてから、自分のブログ経由でアクセスしてみます。

Amazon.co.jp: DVD: パッション
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0001X9D86/ref=ase_vasespiritual-22/250-7338267-6199402
 ※言わずと知れたアマゾンのページ。

X51.ORG : 「パッション」キリストの磔刑シーンで観客も死亡 米
http://x51.org/x/04/02/2622.php
 ※これが、ロイター発「「パッション」キリストの磔刑シーンで観客も死亡」と言う記事の内容なんですね。…う~ん、リンクの貼られている他の記事、なかなか怖そう…。(ちょっと、下ネタ、スカトロ的ニュースが多いかな)

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箱舟の記念日ですか…

アシュレ|AY YOLU 日記
※注:現在、この方のブログは、内容完全刷新の上、再開されており、私がトラックバックした記事は公開されておりません。

初めて、@niftyココログ以外のブログへトラックバックしてみます(祝!)

ここ数週間鑑賞したDVDの中に『天地創造 -in the Beginning...-』と言うのがあるんですが、その中でもいちばん好きなシーンがノアの箱舟のシーンでした。ノアの箱舟の遺物が、トルコ領内のアララト山(…でしたっけ?)の山頂に遺されている、と言う話をどこかで読んだことがあるんですが、それ以外にも、実はトルコと聖書中の出来事とは、深い関係があるんですね。

例えば、キリストの磔刑~復活以降、聖母と弟子たちはエルサレムの、最後の晩餐に使われた「高間」(Ceanaculum、ラテン語で「チェナクルム」ともイタリア語で「セナーコロ」とも音訳される)に集まり、一心となって祈っていて五旬祭(Pentecoste)の日曜に聖霊降臨を迎え、これが教会の始まりとされているのですが、その後、使徒ヨハネに引き取られた聖母マリアは共に、「小アジア」トルコのエフェソスに赴き、そこで後半生を過ごされたと言われています。

そのエフェソスでの聖母の暮らしの様子などを、近代の何人かの示現者(ヴィジョニスト)ら、例えば、ドイツのカテリナ・エンメリッヒ(エンメリックとの表記もあり)や、イタリアのマリア・ヴァルトルタ(ワルトルタとの表記もあり)が遺しており、特に、国際的な調査隊が組織され、一生ドイツを出ることのなかったエンメリッヒの示したヴィジョン通りに、エフェソスに「聖母の家」とされるレンガ造りの慎ましやかな家が発掘された(Web上では、例えば、こことかここで見ることができます)ことは、感動的なことでした。

ところで、私事ですが、先月だったか、カリフォルニア在住のうちの妹が「ケーブルテレビのドイツ語のチャンネルに、変な言葉の番組が映る」と言って来たことがきっかけになって、私と妹の間で、「トルコ語・プチブーム」が起こったことがありました。妹は、生の素材を使っての本物の語学修得に関心があるので、テレビを見ながら本物の表現を学べるのならそれに勝ることはない、と思ったのでしょう。(その後、勉強がどうなったか、聞いてませんが)

妹は、料理も好きなので、早速、このトルコ料理「アシュレ」の料理法のことも知らせてあげようっと。

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February 20, 2005

すかぱ~

…ああ、だいぶ、投稿に間が空いてしまいました。

実は、話せば長い事ながら、とても忙しかったのです。仕事ではなく、すかぱ~の無料視聴期間で…。…ああ、四旬節だと言うのに、もう拷問のようです、300近くあるチャンネルの中から、契約したいチャンネルを2週間で決めろ、だなんて…。

そもそも、すかぱ~も、自らお金を出して電気屋さんからチューナーやらあのお皿のアンテナやら買って来た訳ではなく、先月末に、何だったかももう忘れてしまった何かの懸賞だかキャンペーンで受信機器(標準工事代金込み)が当選してしまって、いろいろめんどくさい連絡とって工事の日取りを決め、病気(?)で寝ている高齢の父を一時、その寝床から追い出して(…と言うのも、父の寝床のあるのが家族の居間で、そこにすべてのAV機器、平たく言えば、テレビやらステレオとかのたぐいが置いてあるからで)、日の暮れた2月の寒空の下、壁にケーブル通す穴を開ける工事までしてもらったり…、もう怒涛のようにいろんなことがあって一週間、どうにか受信契約するチャンネルも決まり(海外ドラマと、ドキュメンタリーが好きなので、「ベーシックパック・イェロー」とか言うのにしました;もともと「すかぱ~」を付けたいと思った動機の「放送大学」ははなから無料だし、興味津々だった大前研一の「ビジネス・ブレークスルー」は、受信料が17,850円/月、とバカ高く、ホントのコンサルになってバリバリ稼がないと捻出できそうにないので諦め…)、本契約も終了、PPV(Pay Per View)とか言うののやり方も覚え、やっとひと息つけるようになった、と言うところで。

さて、先週、キリストの御受難関連の映画特集を投稿してますが、今回購入しなかったDVD『奇跡の丘』とアメリカ版『クォ・ヴァディス』(1951年)なんですが、「四旬節だから」なのかどうかわかりませんが(有楽町のSofmapのDVDコーナーなんて、絶対この時期を当て込んだ意図的なディスプレイをしています;なんで『パッション』がこんなに並んでるの~!?)、この2月、すかぱ~で放送されています:
『奇跡の丘』は、Ch.260の「洋画★シネフィル・イマジカ」で、(これから放映される分に限って挙げれば)2月22日火曜朝9:00-11:30、2月24日木曜午後3:20-5:50;
『クォ・ヴァディス』は、Ch.283の「SheTV」で、2月23日水曜午後12:00-3:00、2月25日金曜夜7:00-10:00。

これからすかぱ~の受信機器を購入しても、自分で取り付けるなり、電気屋さんに頼むなりして、急いで受信環境を整えれば、2週間の無料視聴期間内に鑑賞可能ですよ~。
(その後は、いちばん安いチャンネルだけ契約して、一ヶ月で解約、基本受信料410円払えば無料で視聴できる放送大学とかだけ楽しむ(?)ということも可能)

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January 18, 2005

DVD『親分はイエス様』観ました

Mac miniなんかはどうでもよくて、昨日1月17日は、阪神大震災10周年でした。うちの父の80歳の誕生日でもありました。 父の誕生日と阪神大震災の日とが同じ日なんて、毎年いつも、複雑な気持ちです。

あの時、私は京都の下宿にいて、朝5時半に目が覚め、午後から神戸の大学院の演習で発表する予定だったレジュメに最後の手直し( 「泥縄」とも言います)をするべく、パソコン(当時は、Compaq Presario 433)に電源を入れた、その直後でした。 マッチ箱を狭い面を底面にして横に置いたような、細長いうなぎの寝床のようなマンションもかなり派手に揺れました。 なんだか泥縄の作業も嫌になっていた頃で、「こりゃ京都大震災だ、震度はどれ位だったんだろう?」とテレビを点けたら、 神戸が燃えていたのでした。「…どうやって、学校まで行こう…」。もう、学校どころの騒ぎじゃなかったですけどね。電車止まってたし、 いつも下車していたJR六甲道の駅はものの見事に潰れちゃってたし…。

それから阪神電車が青木まで復旧するまで、私の体は不思議と動き出しませんでした。震災の起こる10年位前には、 大阪の身体障害者の介護とか、釜ヶ崎の労働者の為の支援だとか、今で言うところの「学生ボランティア」に精を出していた私ですが、 目の前で京大生たちがボランティアに動き出していても、自分の在籍校が被災していると言うのに、 まるで何かに麻痺したように活動に参加することができないでいました。京都を捨てて神戸の大学院に進んだこと自体、自分には大バクチで、 神戸まで通学するのにかなりのテンションを必要としていたというのもあるのでしょう。震災で、まるで凧糸でも切れたみたいになってしまって、 腑抜けた日々を送っていました。

さらに、翌年の1996年1月20日頃、京都を10年に一度あるかないかの猛烈な寒波が襲いました。水道管も凍るほどでした。 うちのマンションも排水管が破裂してしまい、急遽、引越しを余儀なくされました。 引越しの荷造りで壁に並べた大きなスライド本棚を除けて見ると、コンクリートの壁に大きな亀裂が走っているのが壁紙の上から見えました。

それだから、震災は、テレビで聞かれるように「忘れる」だとか「忘れない」だとかの対象ではなく、 何かもっと私の奥深いところに突き刺さった「棘」のような出来事なのです。

しかし、そうは言っても、1月17日は父の誕生日。しかも、80と言う大台です。本人は嬉しくないかもしれませんが、 何かささやかなお祝いをしてあげたい、とかねて買っておいたDVD『親分はイエス様』 を鑑賞することにしました。「アーメンソーメン」嫌いな父ですが、配役は渡瀬恒彦あり、ガッツ石松あり、中村嘉葎雄ありの、 父の好きな俳優での豪華キャストです。これが何かの「やり直し」・生き直しのきっかけになったらいいな…、と思います。

(別に、これが連載【本日の福音】をサボってる理由じゃ、ないですよ)

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January 15, 2005

【本日の福音】マタイ1:29-2:17(水-土の4日分)

…いよいよ、【本日の福音】が「今週の福音」に近づいて参りました。あ~あ…(-_-;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト マタイ1:29-1:45
New American Bible版テクスト マタイ2:1-17
(全米カトリック司教協議会による)

今日取り扱うのは、多くの病人を癒し、徴税人のレビを弟子にする箇所です。

イエス様はどうして、こんなに多くの病人を癒したのでしょうか? 「神の愛」を体現するだけに、病気で困っている人を見るに見かねて、激しい同情心に駆り立てられたからでしょうか?

そういう理由もないこともなかったでしょうが(…二重否定?)、当時、多くの敬虔なユダヤ人は、病気、特に「重い皮膚病」は、罪ゆえに神から来る罰だと考えられており、律法にも共同体に戻る為には「浄め」が必要、と定められ、「罪深い自分」は神に近寄れない=神殿で神を礼拝することなどできるような、神に相応しい存在ではない、と自己否定に走り、神から遠ざかってしまっていました。

しかし、それは神についての誤った認識です。神様は、慈しみ深い方です。それは、旧約だから「厳しい」、新約だから「愛の神様だ」、とか言う時代区分についての誤った常識には関係なく、太古の昔の最初から、実は、「赦し」の神だったのです。人間が犯した罪を素直に認め、童心の様に神様に立ち返ろうと正しい決心を起こされるなら、先回りして抱き締める用意をして待っておられる方なのです。神様は、永遠に、昔も今も、その性質を変えたりなどなさいません。ただ、人間の方の間違った思い込みが、「神様は厳しい方」と言う、誤った神様像を作り上げていただけです。

その為、イエス様は、人々の抱く神様への認識を正しいものに訂正してあげる必要がありました。そして、誰でも、素直に神に立ち返りたい人は皆、神様との仲直りができるよう、神様へ向かう「道をまっすぐに平らに」してくださったのです。勿論、その準備は洗礼者ヨハネも行いましたが、洗礼者ヨハネは、「罪の赦し」そのものの権限は持っていませんでした。イエス様は、 人間の罪を取り除く権能をお持ちの神様そのものですので、 (普通の敬虔なユダヤ人なら、「近寄るのも汚らわしい」と感じる)病人に対してであっても、罪深い職業とされていた売春婦やレビのような徴税人であっても、彼らに向かって真っ直ぐに歩いて行かれます。

なぜなら、神は、病人を病気ゆえに、人を職業ゆえに「罪びと」だ、なんてお考えではないからです。罪は、人の心より生じるものです。「神様に赦されて、再び神の民に加えられたい」と言う望みを持っていたとしても、人間の限られた理性故に陥っている誤った自己否定と周囲からの偏見、そんなつまらない理由で、欠けがえの無い神さまとの愛の交わり・愛し愛されの相思相愛状態(=「至福直観」 とも言いますが)を放棄し小さく孤独に震えているなんて、そんな哀れな人間の姿は見るに見かねるのです。神との交わりの障害になっているのが、ただ、病気だったり、職業に対する偏見だったりするなら、その障害さえ取り除いてあげれば、御許に戻って来る。自分の枠に囚われている人間にはできないのなら、神の方から歩み寄ろう。神様の愛とは、そういうものです。

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January 11, 2005

【本日の福音】マルコ1:14-28より(2日分)

ここのところ、クリスチャンでない父にキリスト教関係のDVD(とりあえずは『ミッション』『親分はイエス様』 )を見せようと画策していて、この連休の日曜の夜には『天地創造』(原題: "The Bible ...in the beginning")を一緒に見ました。ノアの箱舟のシーンは圧巻でした。この次は『十戒』を見るぞ~(未入手)。2月9日(灰の水曜日Ash Wednesday)から始まる四旬節(Lent、カトリックの復活祭の準備期間で、言わば「祈りと断食」のシーズンです)に『パッション』を見せたいんですねぇ。

そんなこんなで、すっかり投稿のタイミングがずれ込んでしまい、今日は2日分です。(^_^;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

さて、今日のところは、イエス様の公生活の始まり、最初の4人の弟子の召し出し、悪霊の追い出しの場面です。
マルコによる福音書では最初の弟子の召し出しはサラリと書かれているだけで、なんだかこの4人は考えなしに知らない人に付いて行っちゃったみたいですが、ルカによる福音書5:1-11では、不思議な漁とシモン・ペトロの召し出しが詳しく伝えられています。また、ヨハネによる福音書1:35-42では、まず洗礼者ヨハネの弟子だったアンデレが「見よ、神の小羊だ」 と教えられてイエス様に付いて行き、次いで自分の兄弟シモン・ペトロに紹介するくだりが述べられています。 (以上、1/10分)

続く悪霊(「汚れた霊」 )を追い出す場面では、「汚れた霊」が「ナザレのイエス、 (引用中略)正体は分かっている。神の聖者だ」 と叫ぶのが印象的です。私は、霊の世界のことには疎いので(^_^;)、「名指し」のもつ意味とか、この辺の事情に不案内で、なんだか敵がイエス様のことを褒めてくれたみたいな、変な感じがしますです。
この「汚れた霊」は、故人である幽霊(←カトリックでは地獄に堕ちたのでない「煉獄にいる霊魂」は、既に救われていずれ天国に入る浄い霊です)でも、悪魔(サタン、神様に叛旗を翻した堕天使)でもなく、もっと低級な霊的存在のようです。と言うのは、続いてこの出来事を見て驚いた人々が「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と論じ合っているからです。
この発言にも、現代を生きる私たちと、昔の人たちとの言語感覚(?)の違いを意識させられてしまいます。つまり「権威」 (authority)と言う概念です。被造物はすべて神のご命令に逆らえません。神から出る意志命令系統の正統性を表わすものが本来の意味での「権威」です。 (絶対王政の王権神授説は、国王が神の教えに従っている限りは、正統なものでした)
翻って、私たちが考える「権威」とは何でしょう?「権威主義(的)」などと言うとまるで、自分がなく、長いものに巻かれようとする役人根性のようです。しかし、「正しい権威」に従うのは、自由意志の最高の発露です。なんか、カントめいて聞こえますが、話は逆で、カントの倫理性は、キリスト教的な「自由」概念から出発しているのです。 (カント哲学の宣伝をしているのではありません)

Continue reading "【本日の福音】マルコ1:14-28より(2日分)"

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January 09, 2005

【本日の福音】マタイ3:13-17より

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日(=主日)は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面でした。
「洗礼」とテクストにはありますが、教会ができてからの秘跡としての「洗礼」 とは、ちょっと意味合いが違います。教会の秘跡としての「洗礼」は、教会のメンバーに加えられるに当たって、アダム以来の原罪と、その人自身がその日までに犯してきた罪である自罪の両方を、神である主イエス・キリストの権限において、秘跡の執行者を代理人として、まったく浄めてしまう儀式です。「罪の赦し」は神にしかおできにならないので、目には見えませんが、それを「洗礼」という目に見える行為で表現するのが、教会の秘跡としての「洗礼」です。
さて、当時、ユダヤ人の間で宗教的な「禊ぎ(みそぎ)」の儀式として水に身を浸すことがあったようですが、洗礼者ヨハネは更に発展させて、神に対して犯していた罪を「悔い改め」るしるしとして、罪の告白(現在の教会では聴罪司祭による「赦しの秘跡」として行われています)と一緒に施していたようです。
ところが、そこへイエス様がお見えになりました。イエス様は罪など犯したことのないお方です。当然、告白すべき罪もありませんし、「悔い改め」る必要もありません。それでも、人々の模範として率先して、神へとまっすぐに心を向かわせる行為である「洗礼」を受けたかったのです。
「悔い改め」とは、何だか、ややもすると舌を噛みそうな位音節が多くて、難しい響きの語ですが、「改心」とも「悔心」とも「回心」とも言います。「回心」とは、これまで神から離れ私利私欲や自己愛に走っていた私心を捨てて、心を神様の方に向けることです。自分の罪深さに無神経では神様の方を向けませんので、自然、己れの罪深さへの後悔の念と二度と罪を犯したくないと言う決意を伴います。だから「悔い改め」なんですね。難し気ではありますが、「神様の方へ向き直ることだ」と考えれば、今すぐにでもできそうではありませんか?

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