カトリック

September 14, 2008

十字架称賛

十字架称賛
╋主の平安!

今日は「十字架称賛」の祭日、8月6日の「主のご変容」の祭日の40日後に、人の救いの為に十字架に架かった主の愛を称える日でした。

【朝の祈り・第二唱和】より

造られたものは
みな神を賛美し、
代々に神をほめたたえよ。
天のすべてのものは
神を賛美し、
神の使いは神をたたえよ!

(ダニエル3:57~)

明日は「悲しみの聖母」の記念日です。
ご受難の主の最期まで、十字架の元に留まり続けた聖母(Stabat Mater、スターバト・マーテル=「御母は佇み給えり」有名な歌もありますね)の悲しみと祈りを記念します。

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January 20, 2008

枝〜 …いつの?

枝〜 …いつの?
今年はご復活が早くて(3月23日)、逆算で、その46日前(日曜を除いた40日前)から始まる四旬節も、灰の水曜日が2月6日。

灰の水曜日におでこに塗って貰う灰を作るのに使う去年の枝(枝の主日=受難の主日で配れたもの)を教会に持って行かなければいけません。

…だけど、この枝、いつのかなぁ…。去年と言わず、一昨年のも一昨昨年のも、うちにあると思うんだけど…(^_^;)

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October 13, 2007

10月13日

10月15日は、カルメル会の改革の母・アヴィラの聖テレジアの祭日(ホントは、10月4日に帰天されたのですが、4日は、アッシジの聖フランチェスコと言う大聖人の祝日が先に決まっていたので、15日にまでズラされたのだとか)なので、多分、カルメル会ゆかりの教会では明日、盛大にお祝いをするのだと思うのですが、今日は10月13日。

土曜日はマリア様に献げられた日で、まぁマリア様関係のミサ(たいていミサの前後に皆でロザリオを唱える時間を設けた進行になっている)は土曜の午後に行われることが多いです。

で、10月13日です。

ポルトガルのファティマで、1917年5月13日から8月以外の毎月13日(8月は翌々日の15日の被昇天の日)、3人の牧童(うち、唯一長生きした最年長のルチアは、カルメル会のシスターとなって一昨年亡くなりました)に出現されたマリア様が最後に、栄光の「カルメル山の聖母」の姿で出現され、7万人の人がファティマに集まって来て、「太陽のダンス」の奇跡を目撃した日です。

元々10月は、「ロザリオ月」ですが、今日は、三重の意味でロザリオの日です。

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August 23, 2007

レジナ・チェリ

レジナ・チェリ
レジナ・チェリ
レジナ・チェリ
レジナ・チェリ
今夜は普段とは違う宿です。

会社には近いのですが、朝食が有料です。

その代わり、レストラン「REGINA」(レジーナ)でバイキングです。

バイキングと言っても、私は起き抜け〜朝出かける前の胃が異様〜に小さいので、パンとコーヒーだけでもお腹いっぱいになってしまいますが…。

ところで、「REGINA」(レジーナ)とはラテン語で「女王、queen」の意味。

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January 08, 2007

主のご公現、おめでとうございます!

さてさて、昨日の日曜日(1/7)は、クリスマスの次の次の日曜日で、星(星占い)の導きだけを頼りに、別々の国から(連絡を取り合うこともなく)、ベツレヘムの町の馬小屋の飼い葉桶の中に眠る幼子イエスを礼拝しにやって来た、東方の三博士(三賢者)を記念する「主のご公現」(Epiphany)のミサがありました。

東方とは言いますが、北アフリカの方からやって来た博士もいたようで、言われているように必ずしも、ペルシアのゾロアスター教の祭司だった訳ではないようです。

この三人の博士は、青年の博士はメルヒオール、壮年の博士はバルタザール、老人の博士はカスパール、と言う名前だったと伝えられていますが、それぞれ、王様への贈り物にふさわしい「黄金」と、神に仕える祭司への贈り物にふさわしい「乳香(にゅうこう)」と、受難によって死に至る預言者への贈り物にふさわしい「没薬(もつやく)」を携えてやって来ていて、赤ん坊であるイエス様にお献げしたのでした。

…ところで、この三博士の名前、どこかで聴いたことありませんか? そう、「新世紀エヴァンゲリオン」のNerv(ネルフ)本部の地下に設置されている三台のスーパーコンピュータの名前ですよね。赤木律子博士のお母さんの「科学者として/女として/母親として」の心が籠められていたんでしたっけ?

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November 06, 2006

パンの奇跡、…じゃなくて、季節

パンの奇跡、…じゃなくて、季節

さて、先の投稿で触れた「エバンジル会」では、私の出席した回だけ、亡くなったベジノ神父様の回も数えて、マタイの福音の「パンの奇跡」 (multication de pain)の箇所を、5~6回は読んでいると思うんですが、毎回、「…あ、そういう意味があったのね!」 と、新鮮な驚きがあります。

ですが、今日のお題は、「パンの奇跡」ではなくて、「パンの季節」。

秋です。

気が付いてみれば、暑さに息も絶え絶えだった残暑も過ぎ去り、長袖の上着無しでは外を歩けない寒さになってました…。

 で、秋、とくれば、ふjiぱンのプレゼントの季節です。

話がぶっ飛ぶようですが、2002年に京都から横浜に移って来て、(京都で「レジオ・マリエ」の会員だったように) どこのグループにコミットしようかと、「エマヌエル共同体」その他のグループを「見学」(?)させていただいていたのですが、今年7月に 「カルメル在俗者会」との「接触」を始めて(「接触期間」1?2年で入会資格が発生;私の場合、7月は遅刻したので、 資格カウントは9月からで、入会の儀式は7月と1月の年2回だけなので、最も早く入会できて再来年の1月)、最近グッと、聖務日課(= 「教会の祈り」※)やら、聖書やらの蔵書も増えて来たので、皆をまとめてしまっておけて、しかも、お祈りの時に持ち運びしやすい、 カチッとした形のバッグを、探していたところだったのです。

※カルメル会固有の「教会の祈り」や「賛歌集」 がある他、1、2年ほど前から四ッ谷のエンデルレ書店に置いているラテン語の聖務日課も集め始めた…、と言うか、 季節毎の5分冊になっていて1冊1万ほどするそのあまりのバカ高さに「Ⅳ 年間第18-29週」―今年はもう、終わってしまつた… (+_+)―の1冊だけ買って頓挫しているものもあるので…

その点、今秋のふjiぱンのバッグは、まさに、うってつけ。

しかも、無印良品とかで探して買って来ようと考えていた矢先、今月は色々とイベントが多く、モノ要りの時だっただけに、 タダで手に入るなんて、時宜にかなった天からの助けですぅ?

…あ、「フランス語で聖書」に追記ですが、結局、無料ダウンロード版「La Bible Online」には、「ルイ二世」訳版と 「種蒔く人」?訳版しか入っていないので、格調高い文語カトリック訳と言われている「エルサレム」訳版 (ペーパーバックは持っているのですが、やはりデジタル版の方が検索が容易です)の入っているCD-ROMを注文してしまいました…

(Premiumの方でも、日本円で送料込みで7?8000円程度;安価版でも本体3900ユーロ位)

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November 04, 2006

フランス語で聖書

先の投稿で「La Bible Online」にちらっと、触れましたが、今、「エバンジル会 ~フランス語で聖書を読む会~」 と言うのに、週一回参加しています。
(詳しくお知りになりたい方は、NHKラジオフランス語講座テキスト4月号等掲載の広告をご覧下さい)

私の知り合いでカトリック信者の方には、えらく語学に堪能な方が多くて、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語等々、 さまざまな外国語に造詣の深い、カリスマの与えられた方がいらっしゃいます。中には、ヘブライ語・ クロアチア語でロザリオを祈ることのできる方まで!

その中で、大変英語の堪能な方が一人、「自分は英語を、主の栄光を表すこと以外の為、特に、金儲けには使わない、と決めている」 と豪語されていらっしゃっていて、英語を使わずには働けない私など、「ひぇ~、すごいなぁ~!」と感嘆してしまうのでした。

が、私も振り返ってみると、仕事に英語・ドイツ語・オランダ語(?;…使ったって、言えるのかなぁ…)を使ったことはあっても、 フランス語・イタリア語でお金をいただいたことはない。
それなら、仏文科時代に培ったフランス語とラテン語、そしてイタリア語(…えらく拙いものですが…)の語学力なら、 神さまの為にお献げすることができるかも知れない…。

そんなこんなを考えて、京都から横浜に移り住んで以来、「エマヌエル共同体」や「エバンジル会」に顔を出して来たのですが、 ここ1~2年の失業中、すっかりご無沙汰してしまっていました。

で、今年3月、新しい職場で働きだしたのをきっかけに、新年度から「エバンジル会」に心機一転、出席。
今度はかなり出席率が良く、いい滑り出しで、ベジノ神父様の授業の最後にフランス語の聖歌を練習して、主を賛美できるのも楽しく、 1学期の最終日には過分の褒め言葉まで戴いてしまって、恐縮…。

大変、良い感じで夏休み後の再開を楽しみにしていたのですが、その肝心のベジノ神父様が7月26日に突然、帰天され、 私は大変な失意とショックとで気持ちが塞がってしまって、とうとう神父様のお通夜にもお葬式にも行かれず、最後に神父様にご挨拶したのは、 9月11日に行われた「エバンジル会」主催の追悼式でした。
(そうこうするうち、今度は、9月24日には「癒しのミサ」でお世話になったマッコイ神父様(ベジノ神父様と同じく、イエズス会)まで、 お亡くなりになって)

せっかく、東京で働く暮らしでの心のオアシスとして楽しみにしていたベジノ神父様の「フランス語で聖書を読む会」が、 神父様の死でなくなってしまうなんて…、あまりにもあんまり!

と、思っていたら、「エバンジル会」のスタッフの方々のご尽力で、新しい神父様を講師にお迎えして再開する運びに。

…しかし、引っ込み思案で人見知りする私は、新しい若い神父様に馴染めない…。
う、う、う、ベジノ神父様~!

…と、泣いていた訳でもないのですが、10月、「パードレ・ピオの集い」に久し振りに参加した帰り、 こんな時でもないと立ち寄れない四谷のエンデルレ書店に寄って、いろいろお祈りの本やら物色していると、ハードカバーで分厚くて、 カラーのインフォメーション(聖地の写真等)やら解説が付いた、素敵なフランス語聖書(旧約続編付き)が一冊だけ、置いてある。
ちょっと表紙が汚れていたけれど、愛用するのには何の支障もなさそう。
「エバンジル会」で使用しているテキストは、口語の新約聖書のみの版だけれど、これは同じ口語の新約聖書に詩編は勿論のこと、旧約も、 カトリックで使う旧約続編まで付いているし、こ~んなに至れり尽くせりの分り易い聖書は、きっと、天国のベジノ神父様からのプレゼント、 「自分がいなくても、聖書の勉強に励みなさいよ」と言うメッセージに違いない!、と感じて、ほとんど衝動買いでしたけど、早速買い求め、 当日の福音から読み始めました。

そうこうするうち(…って始まる段落、前にもあったような気がしますが)、そう言えば、 フランス語で聖書を朗読してあるCD-ROMなんて、無いのかしらん?、と言う考えがふと、脳天をかすめる日があって、ネットで検索すると、 銀座の教文館書店にヘブライ語とかが有るような無いような…(あるなら、もう、フランスのサイトから、インターネット通販でもいいのですが… )

どっかにないかなぁ…、と探していて行き当たったのが、前述の「La Bible Online」なんです。
もっとも、この音声機能を使うためには、CDを入手しないといけないみたいなんですけどね。

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May 01, 2006

福岡に行きまーす

何とか、往復の旅程も定まり、切符の予約・購入も出来たので、この連休の間に、 生まれて初めて福岡の地に足を踏み入れることができそうです(母の出身が種子島なので、私が3歳の時、 鹿児島空港には降り立ったことがあるらしいのですが…)。

福岡に行って、5月4日(木)の10:00から15:00まで、浄水通教会で催される「すべての民の御母を囲む祈りの集い2006 ~マクシミリアン神父、シスターマリアしほを迎えて~ (マリアの家族宣教会)」(詳細は、「いつくしみセンター」のサイトを参照のこと)に参加して来たい、ついでに、 高知行きの時には果たせなかった(←主日早朝ミサのなくなっていた江ノ口教会のこと)朝ミサへの参加(今度は、司教座・大名町教会で、 7:00~)もかなえて来よう!、と思っているのですが…、

「浄水通」教会の、読み方が分からない…! (^_^;)

…多分、地下鉄で七隈線に乗って「薬院大通」駅か「桜坂」駅で降りて、ミッションスクール目指して歩けば、何とか辿り着けそうですが、 道に迷って人に道を聞いたり、時間が無くてタクシーを利用することになったりした時に、行き先を、は、発音できない…

誰か、教えてください。

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April 15, 2006

Good Friday

日付変わって昨日は、聖金曜日でした。

聖木曜日、聖金曜日と、自分の所属教会での典礼に与ることができたのは、京都教区以来。明日、いえ、日付変わって今夜は、いよいよ、 御復活です。

ところで、仕事でシンガポールのオフィスの対応待ちなのに、なかなか返事が来ないものがある。ひょっとして、 私の送ったメールやFAXは届いていないのか。担当者が、長期の休暇中なのか。はたまた、病気なのか。…とやきもきしていたら、 職場の隣の島から「シンガポールは今、祝日だから…」と言う言葉が聞こえてきました。

「…え?祝日???」シンガポールは華僑の作った小さな国ですが、一体、何の祝日かしら…?
と、昼休みに調べてみたら… 、な、なんと「Good Friday」、つまり、聖金曜日だと言うのです!

これにはびっくり。小さな小さな華僑の国に、どれだけクリスチャンがいるのか分かりませんが、 きちんと国民の祝祭日になっているなんて、日本以上にキリスト教信仰の根付いている国なんでしょうね。

羨ましい!(…仕事が休みだから?(^_^;))

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February 23, 2006

復刊ドットコムで復刊リクエスト!

…と言う訳で、 『私たちの念祷』も復刊リクエスト出してみました! 

…なぁに、ドン・ボスコ社の方で目下、復刊準備中なら、登録を修正/削除すればいいだけのことです。

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February 22, 2006

『愛の招き 世界に宛てたみ心のメッセージとその伝達者』復刊投票

「復刊ドットコム」と言うサイトで、ラファエラマリアさんという方が『愛の招き 世界に宛てたみ心のメッセージとその伝達者』と言う本の復刊をリクエストしていますが、復刊に必要な投票100票のうち、まだ15票しか集まっていません。私も既に投票しています。この本を読んでみたい、と思われる方は、是非、「復刊ドットコム」に登録されて、投票にご協力下さい。

概要はこちら↓

愛の招き 世界に宛てたみ心のメッセージとその伝達者
著者名
聖心会
出版社
聖心会
ジャンル
宗教・哲学 キリスト教
登録日2002/12/13 18:02:28
オーナーラファエラマリア さん
内容シスタ- ヨゼファ メネンデスは、1890~1923の聖心会の修道女。彼女に、主イエズス・キリストが直接語り掛けられた言葉を綴ったもの。信仰を持って読む者の心に、深くしみ込む事は、間違い無い。
ISBNコードISBNコードなし
電子ブック化投票 5票 [説明]
復刊リクエスト数15票 /100票

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February 17, 2006

【ニュース】ジャンヌ・ダルクの遺骨、調査へ

遺骨はジャンヌ・ ダルク?(2006年02月14日12時50分付共同通信)
ジャンヌ・ダルク「遺骨」は本物?半年かけ鑑定へ(2006年02月15日15時20分付読売新聞)

昨日(日付変わって既に一昨日)のTVでのニュース報道で知って、「へぇ~」と思ったのですが、鑑定の専門家でもないし、詳細は判りません。 (^_^;)

よっぽど、他のブロガーさんたち↓の方が情報収集が素早いですね:
ジャンヌ・ダルクの遺骨は本物?火刑後6世紀を経て鑑定へ

カトリック関連の遺物で真贋論争の続いているものは、ヴェロニカのハンカチやトリノの聖骸布(…なんと、ダ・ヴィンチによる偽造・でっち上げ説まである!)等々、多々ありますが、私自身は、本物であって欲しいけれど、何せ、昔のことなので、人の手で保存されているものが贋物であっても仕方ないかな、とは思います。

それより気になるのが、聖ジャンヌ・ダルクとなると、デリケートになってしまう(←私が)、イギリスとカトリックの距離。イギリスと言えば英国教会ですが、近年、公式な「主の祈り」の統一等、接近していたのに、これでまた何か冷え切ったりしたら嫌だな~。…ま、聖座が行うものではなく、フランスの医師や歴史家らが勝手に始める鑑定調査ですから、気にすることもないか…。

…って、クールなこと書いてますが、ザビエル展が日本で催された時には、しっかり、聖フランシスコ・ザビエル様の遺骨(…と言うか、歯)とブーツのショーケースに触って来ちゃいました!(ちょっぴりミーハーかも)

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February 16, 2006

あちこちに、RFID

今日(日付変わって、既に昨日)のテレビのニュースで、無線ICタグを使った仮想メーク実験について報道されていましたけれど、 その話も含めて、国内外でのRFID関連情報満載のサイトは、コチラ

 

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【現代社会と霊性】2.ICチップで「守られる」時代

米国初、体に埋め込んだICタグで従業員を認証2006年2月14日付 HOTWIRED JAPAN

またまた、いよいよ来たか…、と言う感じですね。
911以降、過熱しているセキュリティ技術の応用に関連したテーマを、お財布ケータイの登場の時に書こう、 書こうと考えていたのですが、またもや、その為の良い?機会が与えられたようです。
 
…え、何が、…かって? 勿論、「666」(黙示録13:16-18)の時代ですよ。
 
16また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、 すべての者にその右手か額に刻印を押させた。17そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、 売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。18ここに知恵が必要である。賢い人は、 獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。(新共同訳)
 
黙示録をはじめ、聖書中の預言の内容は、書かれた時期に続く時代に実際に起きた出来事であると同時に、終末の時代、 主の再臨の前にも再び、実現する出来事であるとされています。
例えば、旧約聖書のヨエル書3:1-2(BC440年~400年頃)の
 
1その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
2その日、わたしは
奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
 
と言う箇所は、現代の聖霊刷新運動(プロテスタントのペンテコステ派等では、「カリスマ刷新」等と呼ばれているそうですが) のことを指している、と言われていますし、同じく旧約聖書のダニエル書9:25-27(BC520年頃)の
 
25これを知り、目覚めよ。
エルサレム復興と再建についての
御言葉が出されてから
油注がれた君の到来まで
七週あり、また、六十二週あって
危機のうちに広場と堀は再建される。
26その六十二週のあと油注がれた者は
不当に断たれ
都と聖所は
次に来る指導者の民によって荒らされる。
その終わりには洪水があり、
終わりまで戦いが続き
荒廃は避けられない。
27彼は一週の間、多くの者と同盟を固め
半週でいけにえと献げ物を廃止する。
憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。
そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。
 
と言う箇所も、ダニエルが書いた時代より後の、セレウコス朝シリアのアンティオコスⅣ世エピファネス(在位BC175年-BC163年) の時代に起きた、旧約聖書続編マカバイ記の出来事のことを預言していると同時に、 主の再臨前である終末の時代=現代に再び実現する出来事であるとされています。
 
アメリカのセキュリティ関連企業が、志願した従業員の前腕に「入室カード」 として機能する信号は発しないICタグを埋め込んだとのことで、自らもICチップを埋め込んだCEO(最高経営責任者)は、 ICチップの有無と雇用とは関係ない旨言明していますが、このようなことが一般的になれば、そのうち、(現に、 クレジットカードを持っていることは、その人の経済的信用を証明するものとされているように)「危険でない人物」「信用のある人物」 =ICタグを埋め込んだ者、と同義になり、ICチップのない者は恐くて採用できない、と言う企業も現れるでしょう。
 
ICチップの人体埋め込みは、今回の米国民間企業による従業員への適用事例以前にも、記事中に「メキシコ検事局では、2004年に、 いわゆるRFID(Radio Frequency IDentification: 無線通信による識別技術)チップを一部の職員の体内に埋め込み、立ち入り制限区域への人の出入りを管理している」 と紹介されているように、行われていますし、
 
(他、HOTWIRED上に関連記事多数)と言ったように、徐々に市民社会に浸透してきている様子が伺えます。
既に、EdyカードやSUICAでの買い物や電車乗車はごく日常的になっていますし(私自身も両方共、使っています)、 こういったことに慣れて行ってしまう自分も恐いです。
「~が起きたら、引き際」と思っていては遅いのかも…。「ぬるま湯の中のカエル」と同じでしょうかね。

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February 10, 2006

「【試訳】ピオ神父のカテキズム」について

ココログで別に公開しているブログ「【試訳】ピオ神父のカテキズム」は、考えあって、今月いっぱいで閉鎖することにしました。

ながらくのご愛読、ありがとうございました。

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January 24, 2006

CGI版『聖ヨゼフへの射祷』への入り口

URLの直接入力ではなく、BIGLOBE以外のWebページ上のリンクから飛べるよう、玄関ページを作りました。

こちら ←から、どうぞお入り下さいまし~(なんだか、「こちら」ばっかりあって、オリエンテーリングみたいですが…(^_^;))

QRコードも作ってみました。
携帯(auではうまく表示できないみたいですが…;「京ぽん」=エッジ等、QRコードリーダの付いていない携帯機種からは、コチラを参照のこと)からの↓アクセスを試みてみたい方はどうぞ。qr_st_joseph

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January 21, 2006

携帯版(^_^;)『聖ヨゼフさまと共に』

 さて、先にお知らせした 『聖ヨゼフさまと共に』ですが、実は、このJavaScript版よりも先に、CGI版を設置しようとしたのですが、 何の設定が悪いのか、ヨゼフさまの画像が表示されないのです。
(背景画像の百合の花の絵は表示されるのですが…)

しかし、個々の画像が表示されない分、携帯で見る分には軽いのと(^_^;)、「スライドショーをオンにする」 をクリックすると10秒間隔で射祷が変わるので、携帯でWebをご覧になれる方は、よろしければどうぞ、ご利用になってください。
(但し、「JavaScript版へ戻る」をクリックすると、フル画像の方へジャンプしてしまいます)

ええと、ここにリンクを貼ろうとしたのですが、BIGLOBEの私のサイト以外のページからcgiを呼び出すと、怒られるので、 ご面倒様ですが、一旦、

http://cgi.www5b.biglobe.ne.jp/~fruicci/cgi-bin/album3.cgi

↑このアドレスを、コピペで、あるいは、上記リンクを右クリックして「ショートカットのコピー」の上、 ブラウザのアドレスバーに入力し、パソコンから鑑賞するか、ご自分の携帯メール宛に送って、メール画面から「お気に入り」 登録して呼び出してください。(携帯で、直接、URLを入力してもいいんですが、それは大変なので)

※うーむ。WILLCOMのEDGEでは表示されるのですが、auの携帯では肝心の射祷部分が表示されません。理由は不明。 DoCoMoではどうでしょうか? もうしばらく、公開したまま、調査続行してみます。

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January 19, 2006

射祷をランダムに表示:『聖ヨゼフさまと共に』

st-joseph「ラファエラ記念資料館」で、 『聖ヨゼフさまと共に』を公開いたしました。

トップページの聖ヨゼフさまの御絵をクリックするたびに、毎回、違う射祷(短いお祈り)へジャンプします。(ちょっと、おみくじみたいですが…)

現在のところ、ページは26パターン。良い御絵と射祷(新作オリジナルも可)があれば、追加可能です。コメント欄ででも、お知らせいただければ、と思います。

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January 18, 2006

☆再開☆『私たちの念祷』

久しく絶版となっている 『私たちの念祷』(ドン・ボスコ社)のリンクを、再版されるまでの期間限定で再開してみました。随分前に「再版される」 と聞いたんですが、まだどこにも出ていないようです。大変すばらしい内容なので、公開中に精読され、念祷のエッセンスを会得して下さい。

ただ、著作権の問題がありますので、再版されましたら、直ちに、リンク削除いたします。公開中のWebページについても、 右クリックでのテキストコピーや、ページ印刷等できませんので、ご了承下さい。どうしても、手許に欲しい方は、これも何かの犠牲と思って、 根性で筆記・手入力なさるか(^_^;)(…私はそうしました)、あるいは、版元のドン・ボスコ社まで、 一日も早い再版を望む要望書をお出しになって下さい。

また、この本について、何か情報(特に、再版に関する情報や、著作権者の消息等)をお持ちの方がいらっしゃいましたら、 コメントしていただけると幸いに存じます。(ドン・ボスコ社にお尋ねした方が早いでしょうかね?)

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January 16, 2006

とってもXファイル

京都の友人がこの週末から東京に来ていたので、一緒にイグナチオのミサに出ることにして、地下鉄丸の内線の車内で、とってもシュールな話を聞きました。

あの、ロズウェル事件の際、墜落したUFOと思しきものに乗っていらしたらしい瀕死の方の為にカトリックの司祭が呼ばれ、かのお方に「終油の秘蹟」(今の、「病者の塗油」と言う、重病人の回復と最後の罪の赦しを祈る秘蹟に当たる)を授け、そのことで、その司祭がスペルマン枢機卿から叱責を受けたんだったか、はたまた、その秘蹟を授けた司祭がスペルマン枢機卿だったか、ちょっと忘れたんですが、とにかく、Little Green Manがその秘蹟を受けたらしい、と言うのが話のあらすじ。

で、ちょっと哲学的?な議論になりまして、
「この世に宇宙人というものがいるとしたら、それは被造物に間違いないね」
「で、次に問題となるのは、宇宙人が、犬猫のような動物なのか、秘蹟が有効な人間なのか、と言うことで」
「それって、霊魂の有無で決まるかな」
「動物って、霊魂ないの?」
「霊魂の有無って、どうやってわかるのかな」
「木のお医者さんは、樹木の気持ちがわかる、って言うで」
「ほれ、サボテンかて…」
「うん、うん」
「機械の気持ちが判る人もおるで」
「人間ってさぁ、何でも、自分に似せて意味を読み込む癖があるから、何の気持ちも判っちゃうんじゃないの?」
「点がいくつか描いてあったら、目鼻口に見える、とか」
「人の顔みたいなもんが描いてあったら、その顔に人格を読み込んでしまう…」
「たまごっちとか、世話してしまう人もおるな」
「そういうデジタルキャラや二次元キャラには、霊魂はないよね」
「二次元キャラ?」
「ほれ、サザエさん、とか…」
「ないやろ」
「でも、日本人なら、皆、サザエさんの性格は知ってる;サザエさんなら、こんなこと言いそう、だとか、カツオくんならこんな失敗しそう、とか…」
「だから、単なるキャラクターはアニマとは違う」
「キャラクターはペルソナ(=人格)とは違うよね」
「ペルソナの有無が霊魂の有無なのでは?」
「…で、宇宙人にはペルソナがあるんかいな?」
「…さぁ…」
「…当人(?)が救われたいと思っているかどうか、が、終油の秘蹟、あるいは、臨終の洗礼が有効かどうかの分かれ目なのでは」
「宇宙人は、救われたい、と思うのかな?」
「耳元で囁いて聞くのかな」
「(一人芝居)『あ、ちょっとちょっと、死にかかっていて大変な時に、失礼いたします、あ、声は出さないで、瞬きだけでいいですよ、あなた、主の御名によって救われたいですか?』」
「…そんなん聞かれても、うちの父親かて、『救われたい』とは答えんわ、と言うより、質問の意味が判らんと思うわ」
「本人が救われたい、と思ってないとかなぁ。うちの父親も、前、家族で外出した時、情宣カーが『神と和解しなさい』ってガナリ立てて通りがかって、それに向かって『神さんと喧嘩した覚え、ないわ』ゆーてたで」
「うちの父親だって、もうあちこち故障だらけやけど、体が治って欲しいとも思ってないわ、ただ、飲む薬が欲しい、と思ってるだけで(ライナスの毛布やね)。『救われる』の意味が判らんと思うわ」(発言者順不同)
ってな感じで。

皆さんは、どう思われます?(「判る訳、ないやろ~っ!」って、突っ込まれそ…)

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January 12, 2006

リンボって…

※ この記事は、Seesaaブログ「法令第1条!」 での2006年1月7日付け記事 「【児童関連法】母体保護法・優生保護法・国民優生法 第1条」に付した追記に加筆の上、再掲するものです。

日本で公表されているカトリックの教義ではちょっと不明なんですが、洗礼を受けずに亡くなった乳幼児の霊魂は「辺獄(Limbo)」 (天国と地獄の間にあって、地獄の苦しみはないが、神を見ることもない場所)に行くものと伝統的に考えられて来ました。 この概念について近時、 「辺獄(Limbo)」概念の見直しを迫る要請が国際神学委員会から出されたようです。 (ロイター発2005年11月29日付け記事による;…ちょっと、浦島でしたかね…)

したがって、教会の教義がどうなるか、今後、見守っていかなくてはならない訳ですが、堕胎された胎児は当然のこと、 自己の意思表示など到底できない乳幼児を、 善悪の判断ができる年齢に達していながら受洗しないでいる子供たちと同列に論ずることはできないと思います。

そして、何も言わず黙って殺された胎児は、いわば「血の洗礼」をくぐり抜けた「殉教者」です。それゆえ、12月28日の 「幼子殉教者の祝日」には、Seesaaでのブログ「法令第1条!」において、法令上の堕胎にも触れておかなければ、 と言う思いに駆られたのでした。

ボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエ村に出現された聖母のメッセージ( 『メジュゴリエの証言者たち』ドンボスコ社刊、所収の脚注参照のこと)によると、堕胎された胎児の霊魂は、 天国のマリア様の許でお世話されている、とのことです。

子どもとして当然に享けるべき愛情を与えられるどころか、自分の持ちうる全て(それも、たったひとつの生命と、 十分な発育を全く遂げていない小さな、小さな、小さな体)を献げ尽くし、自分を殺した両親(そしてそれに手を貸した医療関係者等) の改心と和解の為に祈り続けている小さな小さな堕胎児が、何の良い報いも受けないなんてことはあり得ないことです。

で、当然、「幼子殉教者」としての胎児は天国に入り、(煉獄での浄めを経由するにせよ、あるいは、大変な改心と完徳の努力によって、 聖人として死後直接、天国に入るにせよ)遅れてやって来ることのできた両親と相まみえることになります。両親は、自分たちの殺した子どもの、 えも言われぬ美しさを目の当たりにすることになるでしょう。その時、殺された子どもたちが、 その両親と涙のうちに抱き合うことができますように。

また、聖書の黙示録21章に描かれている「万物一新」の際には、この子達は、この世では得られなかった肉体、 それも特上のものが与えられるはずです。その辺りの事情のヒントとなることが、ある本に書かれていたのですが、それはまた、【読みかけ日記】 等のコーナーでご紹介することにします…。

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January 09, 2006

やっと、お正月

いつまでたっても、ここ「霊妙なる器」のデザイン(時計や、ブログペットのお部屋の背景)がクリスマスのままだったので、 怪訝に思われた方もおられることでしょう(…え、更新サボり常習犯のラファエラ姉さんらしい現象だから、疑問にも思わなかったって?)。が、 やっと、「お正月らしい」デザインに切り替わりましたよね。

…いやいや、これにはちゃんと、訳があったんですよ~。カトリックでは、「主の洗礼」(*)を迎えるまでは「降誕節」と言って、 約半月ばかり、クリスマスをお祝いしているのです。世間がクリスマスムードに包まれる12月1日~23日は「待降節」と言って、 祈りのうちに「主の降誕」を迎える「準備」をする時期なんですよねー。

* 例年、「主の公現」の主日の次の日曜、つまり、「主の降誕」の次の次の日曜だが、あまり「主の公現」が遅くなると、…つまりぃ、 1月1日~7日の1週間のあいだに「主の公現」が入らなかったりすると、「主の洗礼」の祝日は「主の公現」の翌日になったりする。今年は、 このパターン。

整理すると、

主の降誕(=12/25)
聖家族(原則、「主の降誕」と元旦に挟まれた日曜だが、「主の降誕」の次の日曜が元旦以降になる場合は、12/30)
神の母聖マリア(=元旦)
主の公現(元旦の次の日曜)
主の洗礼(?)

となっていて、日付で決まる祝祭日と、曜日で決まる祝祭日とが入り混じっているので、ややこしいことになるのですねぇ…。

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January 06, 2006

ペトロ神父様のブログ

「カトリックテレフォンサービス」等で有名な 「祈りの園」のペトロ神父様(カプチン会)が、たくさんブログを書いておられます。とにかく、たくさんあるので、 その玄関口になりそうなものをひとつ、ご紹介します:コチラ→「ハッピー人生 幸せのヒント」

ペトロ神父様は、昨年は肺炎で入院されたり、心配なことが続きましたが、今年はお元気でご活躍されますように。 明日の初土のチェナクルムでは、久々にお会いできるでしょうか?

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January 05, 2006

聖エリザベス・アン・シートン

夜には、高校の同窓会の新年会が予定されていたにもかかわらず、昨日は昼過ぎから風邪がひどくなっていって、朝 「ちょっと喉が痛いかなぁ」と感じた時には、「…いや、気合で何とかなる」と思っていたのに、「こりゃ出歩くと寝込むわい」と思われたので、 新年会の方には欠席メールを出して家で休んでいたところ、夜、メールで、ここ1年あまり入院していた友人のお母さんの容態が急変した、 との知らせが…。

そして、今日、亡くなられたことを知らされた。
亡くなられたのは、昨日だったというので、カトリック手帳の聖人暦を見ると、「聖エリザベス・アン・ シートン」(←リンク先は、女子パウロ会のサイト「Laudate」)。
…そっかぁ…、なかなか凄い聖人。修道院の創設者なんだね。
友人のお母さんが、聖エリザベス・アン・シートンの導きによって、天国の御母(=マリア様)にまみえ、 来る御公現の祝宴に列することができますように。

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January 02, 2006

奇跡の十字架?

ネットサーフィンをしていて、こんな話をみつけました:

ニューヨークの同時多発テロの翌日、現場で犠牲者の捜索に当たっていた建設作業員が、 世界貿易センタービルの倒壊した瓦礫の中から巨大な十字架(写真上)を発見した、と言うものです。

写真と記事は、コチラ (政教分離の考え方から公的な記念に宗教色を持ち込むのに反対の立場の方のサイト)とコチラ (どこの宗派か不明ですが、教会関係者のサイト;下から5分の2あたり)にあります。

これが「十字架」なのかどうか、も議論があります。懐疑的な立場からは、「これは瓦礫の落下で偶然、このような形になったもの」 と言い、「神の御業だ」と言う立場からは、「この十字架を見上げると、不思議な安らぎと慰めを感じる;神が確かにここにおられる、 と言う印だ」と言うのです。これに対して、懐疑的な立場からは、「捜索作業で疲労困憊していたから、慰めが欲しいと思う心がそのように (ただの鉄骨をキリストの十字架に)見せるのだ」と主張しています。

私はこの「十字架」の写真を見て、まず、本で見てウロ覚えの(私自身は行ったことがない)      メジュゴリエ      (ボスニア・ヘルツェゴビナ)にあるクリュゼバツの丘の十字架      (写真下)やブルー・       クロスを思い出したのですが、よく見ると、あまり似てないですね~(NYのは鉄骨だし)。

多分、石の中に立つブルー・クロスの素朴なイメージと、クリュゼバツの十字架の大きさと礎石のコンクリート部分とが、 私の頭の中でミックスされて、そんな錯覚を起こしたのでしょう。

 

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January 01, 2006

あけましておめでとうございます

皆様、明けましておめでとうございます。
思い起こせば、1年前にココログでブログを始めてから早1年。
途中、激しく更新をサボりながら、何とか続けてまいりました。
で、年賀状です↓
New_Year_Card2006
(クリックすると実物大の画像が表示されます)

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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December 30, 2005

こんな記事、みっけ!「フリーソフトウェアとカトリック教義の驚くべき共通点」

ネットサーフィンで思いがけず、↓こんなサイトを見つけました。
フリーソフトウェアとカトリック教義の驚くべき共通点(ITmedia エンタープライズ)

先ほども、年賀状(…この期に及んで…(^_^;))やら、Webのデザインやらの為に、無料の画像処理ソフトをダウンロード・ インストールしたところです。今、この原稿を書いているのも、「ubicast Blogger」 と言うフリーウェアです。もう、私のパソコンライフとフリーソフトウェアとは、切っても切れません。で、「ん、何、何?」 と読み始めたのですが…。

タイトルの、いきなり「カトリック教義」と言うのにも、カトリック信者が国民の0.3パーセントと言う日本社会において、 あまりにも温度差があってぶっ飛びましたが、いかにも翻訳記事と言った感じで、一体、どう言った立場から書かれた記事なのか (宣教師を応援する立場? フリーソフトウェアの「代名詞」とも言えるGNU文化?運動?を賞賛する立場?;多分、後者)、 文脈が把握しにくいものがありました。「正しい技術を選ぶだけで共通善が達成されるというものではないが、それを選ぶことは、 少なくとも正しい方向への必要な1歩である」と、教会に提言までしちゃってるけど。

「1私企業の生死によって存在が左右されるようなフォーマットも使うべきではなかろう。」確かにそうかも。でも、 使っていけないものでもないのでは。(Microsoftは当分、なくなりそうにないし…)
Openなシステムやアプリケーションには、例えば、BSD(Unix系OS;開発には日本人も多数参加している) やOpenOffice.org(無料の、 Microsoft Office互換ワープロ、表計算、プレゼンテーションのパッケージ)等がありますし、私も蔭ながら応援しています (本当に蔭ながら;だって、何も貢献してないし、ただ応援しているだけだから)が、では、普段から、 自分のチョイスとして自分が賛同しているOpenなシステムやパッケージを率先して使っているか、と言うと、全然。 (マシンリソースが貧弱だから、と言うのもあるけれど)Window3.1の「裏」に入れたFreeBSDは、 使うのは楽しいかもしれないけれど、やはり、普段モードのWindowsからリブートして使うには、地球脱出速度に近い「勢い」 が要るし(^_^;)、メールが読みたくなったら使い慣れたBecky!(…は、Windows95以降でないと使えませんが… )を起動したくなってしまう。いくら「互換」とは言っても、 OpenOffice.orgは、やはりWordやExcel、 PowerPointではないので、微妙な使い勝手の違いが気になってしまう。どうしても、と言う時には使わざるを得ないだろうけれど…。 (実際、私と組版システムTeXとの出会いも、 修論提出直前にヴァージョンアップした一太郎がおかしくなったから、だからだし…)

「『正しい技術』は、必ずしもデファクト・スタンダードではない(から、使いにくいよ)」と言う考え方は、「狭き門から入れ」 と言う考え方を先鋭化させる原理主義的な人からは糾弾されそうだけれど(^_^;)、別に「大樹に巻かれよ」と言うのではなくて、 「異邦人を手に入れる為に異邦人のようになった」と言う聖パウロの道もある訳で、それこそ、 普遍の教会としてのカトリック教会は様々なバックグラウンドの国・民族・地域・階層に広がりゆくべきものなのだから、ことさら「正しい技術! 正しい技術!」と大義名分を振りかざして、「正しくない技術」を排斥する必要もないような気がします(勿論、その技術を利用することで、 罪を犯すことになるような技術は駄目ですよー)。「正しさ」の追求は、神の十戒のような基準、あるいは、聖パウロの「愛」の基準 (1コリント書13:1-13)のようなものがなければ、容易に人間疎外のイデオロギーに転化するもんですし。

ま、MicrosoftやNTT DoCoMo(のiモード;私は解約しちゃったけど)がなくなったら、 オルタナティブな技術へとさらりと翻身するだけのしたたかさくらい、教会、ないし、信者にはあると思いますけどね。

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【本日の福音】ルカ2:22-40

いやぁ、久しぶりですねぇ~~、「本日の福音」。もう、半ば、「本年の」福音、に化しつつありますが。(^_^;)
多分、これが(バックデートでの投稿を除き←と言うのも、まだ未提出の宿題をこれからでも間に合わせる希望を捨てていないから、ですが…)本年最後の「本日の福音」になるでしょう。

さて、本日は「聖家族」の祝日です。例年、主の御降誕の次の主日にあたる移動祝祭日ですが、今年は御降誕が主日にあたり、年内にもう日曜がないので、本日祝うことになっています。

で、「聖家族」のミサで読まれる朗読箇所でいつも耳が痛いのが、第一朗読の「シラ書 3:2-6、12-14」の

「子よ、年老いた父親の面倒を見よ。
 生きている間、彼を悲しませてはならない。
 たとえ彼(=父親)の物覚えが鈍くなっても、思いやりの心を持て。
 自分が活力にあふれているからといって、彼を軽蔑してはならない。」

と言う箇所なんですが、幸い(?)今日はB年。第一朗読は「創世記 15:1-6、21:1-3」です。

…ですが、このコーナーで取り上げるのは福音だけなので、今日取り上げるのは、「ルカによる福音 2:22-40」です。(←リンク先は、例によって、全米カトリック司教協議会USCCB-NABの英文テキストですが、本日の箇所だけにリンクを貼ると、しばらくたつと該当ページが削除されてしまうので、ルカ書第2章全体にリンクを貼りました)

今日の朗読箇所は、第一朗読の「創世記 15:1-6、21:1-3」が長い(…ってほどでもないですが)せいか、朗読に長短2パターン用意されています。短いパターンでは、中ほどの老シメオンと女預言者アンナのくだりが省略されます。しかし、省略が多くとも、ミサの中で正式に朗読される福音なので、「立って聴いてるのが辛いんだけど、短くて良かった;神父様のお説教も短いといいな」…と思うのではなくて(^_^;)、ちょっとここで味わってみたいと思います。

あんまり短いので、(新共同訳の翻訳者の著作権を尊重して、いつも引用しないのですが)もう全部、引用してしまいたくなりますね。が、それは堪えて、要約してみると、律法に規定された産後の清めの時期を終えた聖家族が、律法の掟にあるごとく「初めて生まれた男子」を主に献げる為にエルサレムに上り神殿を詣でた話と、ナザレに戻って後の少年イエスの素晴らしい成長について記されています。

新共同訳では「初めて生まれる男子」となっていますが、上のUSCCB-NABでは、

「Every male that opens the womb shall be consecrated to the Lord」
胎(タイ)を開いた(=初めて子宮から出て来た)男子は皆、に献げられなければならない

と、より旧約での律法と直結した表現になっています。初子(ういご)の聖別と言えば、エジプトでの過ぎ越し(出エジプト記12:1-30)、(鴨居と入り口の二本の柱に塗った)過ぎ越しの羊の血によって主のものとして聖別されたすべての家の初子が「撃たれ」ずに助かった出来事を思い出しますしが、これを記念して、神様は「初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである。…あなたの初子のうち、男の子はすべて贖(あがな)わねばならない。」 (出エジプト記34:19-20)、と律法の一部となさいました。神への奉献は、言わば、贖い(=滅びる定めの人間が、金を積んでも買い戻せないその命を、神の御業によって救われること)の印です。そして、この贖われた男子、神の為に聖別された者として、救い主イエスは成長していくのです。

ところで、ここで、お生まれになった救い主の「芽を摘み取」ろうと、ヘロデ王はベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を全員殺させましたが、同じ年頃の男の子であるイエスが、この時期(産後の清めの時期は40日間です)、エルサレムの神殿なんてウロウロしていて大丈夫なんだろうか?…、なんてちょっと疑問が生じました。
が、よく考えてみれば、ベツレヘム周辺だけでも2歳以下の男の子は数え切れないほどいたはずで、初子の奉献の為に、ユダヤ全土からエルサレムの神殿に参詣して来る家族は、もう星の数ほどもあったから、ちょうど、お正月の明治神宮の境内みたいな雑踏になって、とても男子殺害なんてやってらんなかったのかも知れませんね。
…だけど、東方の三博士の話をよく聞いていれば、メシアのお生まれになったのが何月何日で、その40日後は神殿にやってくるはずだから、その前後3日間、「公安警察」(?)を張り付かせておくこともできたかも知れなかったのになぁ…、とも思ったりして…。
…ま、でも、神殿なんて神聖な場所で(人の)血を流すなんてことは到底、無理でしょうけどね。

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December 28, 2005

【法令第1条!】「幼子殉教者」特集

12月28日は、カトリック教会では「幼子殉教者」の祝日です。
お生まれになったばかりのイエス様の代わりにヘロデ王によって殺された2歳以下の乳幼児を記念する日です。

そこで、Seesaaブログ『法令第1条! 』では、児童関連法の特集をやってます。

何せ、法令集なので、味も素っ気もなく面白いものではありません(^_^;)けど、関心のある方は見てやってください。

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December 25, 2005

メリークリスマス!

主の御降誕、おめでとうございます。

昨年は、24日の夜半のミサが四谷のイグナチオ教会(麹町教会)、25日の日中のミサが三軒茶屋教会でしたが、今年の夜半のミサは、ちょっぴり近くなったこともあって(終電の時間を駅すぱあとで調べておいてから)、自分の教会の22:00からのミサに出てみました。

終わるのが23:30近くなるのに、21:30からクリスマス・キャロルがあったためか、もう聖堂はいっぱいで、至聖所の裏の小さな仮の聖堂(初めて入った!;ここ、泣き部屋(*)なのかな?)に通され、そこでテレビ画面に映される主聖堂でのミサの中継を見ながら(…こんなの、東京カテドラルでの教皇様追悼ミサ以来!)、ミサに与りました。(こんなことなら、19:30からのミサに出ておけばよかった!)

やはり、クリスマスのミサは、信者さんでない方も大勢見えられるので、ミサの運営のスタッフでなくても、気合が入ります。
背筋を伸ばして姿勢をしゃんとし、答唱も滑舌よく、聖歌もはっきりくっきり音程を狂わさないよう調子を外さないよう、ラテン語聖歌なら尚更、信者の本領発揮、歌詞の綴りの読み違えなんてしたりしないように…。

何せ、ただでさえ、積極的に勧誘などしないカトリック教会で、未信者が洗礼を受ける気になるきっかけの最大のものが、クリスマスと結婚式だとも言われています(…逆に、ミッションスクール進学は、カトリックに幻滅させる要因のひとつとも、ミッションの中高出身の友人で、とうとう洗礼受けずに今日に至っている友人から聴いたことがあるような…)し、人生の岐路になるかも知れないミサで、たまたまそばに居合わせた信者である私の失敗(?)を見て、躓かないとも限らない…(^_^;)

実際、大きいとはお世辞にも言えない小教区であるうちの教会にも、今夜は、聖体拝領せずに祝福だけ受けられる未信者の方が大勢おいででした。

…ああ、どうか、私が、今日初めて教会にいらした方々の躓きの石となりませんように。
そして、受洗とまではいかなくとも、その心の内奥に、小さな小さなイエス様がお生まれになりますように…!

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December 23, 2005

デスクトップに写真立て

先日、12月14日の記事として 「ヨゼフ様と一緒」を投稿しましたが、ヨゼフ様と一緒にいる方法はいろいろあります。

「聖母の騎士修道女会 愛社」刊行の『わが父聖ヨゼフ』(*)には、「聖ヨゼフに尊敬と愛を示すいくつかの方法」として、 射祷が紹介されています。

また、働く時も、勉強する時も、休み時も、いつも聖ヨゼフの御像や御絵をそばに置くのも、 ひとつの方法でしょう。

で、ちょっと、デスクトップにヨゼフ様の写真立てをしつらえてみました。使用したのは「K-PhotoStand」 と言うシェアウェアです。
(後ろにあるのは、「レオナルド・ダヴィンチ」とか言う(^_^;)WindowsXPに標準で入っている壁紙です;ちょっと今朝、 壁紙を換えてみました)

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December 14, 2005

ヨゼフ様と一緒

いやあ、実は12月14日は、カルメル会の聖人「十字架の聖ヨハネ」の記念日なんですが、昨日、サンパウロのオンラインショップ(いやぁ、ネットでこんな買い物ができるなんて、ホント、便利になったものです)に注文していた「聖ヨゼフと少年キリスト」像が届きまして、今日のおミサの後、神父様にその祝別をしていただいたので、こんなタイトルになっとりますです。

聖ヨゼフ様は、聖家族を(幼児虐殺を命じたヘロデ王等からの)迫害から守り抜き、聖母を支え、少年イエスに愛を以って教育を施し、救い主としてのイエスの活躍も、ご受難とご復活の栄光をも見ることなく、謙遜の極みである沈黙のうちにこの地上での生涯を終えられたのですが、カトリック教会では、この聖ヨゼフ様を、力強い教会の保護者にして、家庭の保護者、勤労の保護者として、聖母マリア様に次いで、大切に崇敬しています。

私も、かねがね、頭では、ヨゼフ様を大事にしないとなぁ…、と思っていたのですが、最近、それがフッと合点の行くような腑に落ちる落ち方をしたと言うか、ちょっと日本語がへんてこりんですが、ま、ちょっとしたきっかけで崇敬の念を強くした訳です。

で、これからいつも、どこへ行くにも、ヨゼフ様と一緒!、なのです。

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December 09, 2005

金曜日は魚の日…!

私はカトリック信者でして、できるだけ日常生活においても信者らしく生活したいなぁ…、と思っているのですが、どうしてどうして、日本に住んでいるとなかなか文化的な障害が大きくて、摩擦力の大きい液体の中を水泳しているような気持ちがすることが往々にしてあります。

さて、教会の掟ではないんですが、教会の古い習慣として「金曜日には肉を食べない」と言うのがありまして、それは、金曜日がキリストが十字架に架けられた曜日だから、主の受難を黙想して、できるだけ節制と愛徳に励むべき曜日とされているからですが、掟ではないので、「…あれ? 今日、金曜日だったっけ?」と忘れている時もあるんですね。また、「節制と愛徳」に励むと言う趣旨からすると、「肉食」にこだわる必然性もあまりなく、コーヒー中毒の者がその日はコーヒーを我慢すると言う具合に犠牲を献げるのも良い訳です。

それでも、私は、金曜日にお肉を食べると言うのは、心情的にあまり気持ちがよろしくない。金曜日に肉を控える、と言うのは、今では高齢の信者さん位しか守っていないかも知れないのですが、そこはそこ、京都で熱心なおばあさん信者の方々に可愛がってもらった私は、守らないと悪いことをした気がしてしまうのです。

京都では、金曜夜のおミサ(18:30-19:00)に与った後、おばあ様方はよく、教会向かいの回転寿司に連れて行ってくれたものでした。いつもいつも回転寿司じゃ味気ない(?)のか、本物の寿司屋さんに行ったこともありますし、京阪三条に行く途にある「がんこ」なんて和風居酒屋みたいなところでビール戴きながら御寿司を食したこともあります(誰かの霊名のお祝いだったかなぁ…)。

そんな訳で、肉を断ったのに、その代わりに寿司じゃあ美味し過ぎる(おまけに、困ったことに、日本は魚が美味しい…)ので、困ったもんですが、やはり肉は食べたくないので(私は、ハーフ・ベジタリアンでして、普段、お肉は出されたら食べる程度で、特にお肉が大好きと言う訳ではないので;好きでもないものなら、尚更、節制になんかなりませんよね~)、その代わり簡単な魚料理をば:salmon その名も、「サーモンのポッシェ プロヴァンス風」! (何がどう、「ポッシェ」で、「プロヴァンス風」なのか、よく判りませんが…;…あ、それと、因みに、私の創作料理ではありません。私が京都で一人暮らしをしていた頃に愛読していた「シンプル・クッキング」とか何とか言う料理の本に載っていた複数のメニューを「合体」させたものです)

<作り方>
① サーモン(塩漬けでない鮭)は買って来たらすぐに軽く塩・胡椒しておく。特に、(サーモン本来の微量の塩分と後の調味料に含まれる塩分で十分すぎる位、味が付くので)塩が多過ぎないように注意。塩は親指に付いた分を払う程度でいい。[私はいつも塩に「藻塩」を使っています。胡椒は「S&B あらびきブラックペッパー」を使用。]
② 残り野菜等、うちにある野菜をうまく使って、千切りを大量に作る。[今回は、冷蔵庫にあったホワイトセロリの残りと「SEIYU ネギ入りサラダ」、タマネギを使用。]
③ 大きめなフライパンに野菜の千切りを敷く。
④ 千切りの上にサーモンを、皮を上にして、載せる。
⑤ その上から、フレンチドレッシング(白)、もしくはそれに類似のドレッシングを大きく「の」の字を書く感じでかける。[今回は、「キューピー テイスティドレッシング きざみオニオン」を使用]。
⑥ 更に、呑みかけのものでもあれば、白ワインを多少、ふりかける。
⑦ フライパンを大きな蓋で覆い、まず3分、蒸し焼きにする。[フライ返しでいじったり、フライパンを動かしたりしない]
⑧ 形を崩さないように、サーモンを裏返して、更に2分、静かに蒸し焼きにする。
⑨ サーモンに火が通って色が変わっていれば、できあがり。大きめの皿に、野菜部分を敷いて、その上に、崩れないようサーモンを載せて、テーブルに出す。皿の半分にライスを盛り付けても、グッド!

…どうです? 材料を刻んで(スーパーから刻み野菜を買ってくれば、それすらなしで)、蒸すだけの簡単料理。手間の割りに、すっごく美味しいですよ~。

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November 08, 2005

わかったぞ~っ!(トン吉教育)

「哲学する」「思索する」「思惟する」「思科する」「配慮する」「苦慮する」「判断する」「祈念する」「観想する」「巡礼する」、「聖夜」「祈願」「聖霊」「慈愛」「聖三位」を使って、俳句を詠みなさい、と言う課題は、本文の最初に書かなくてはいけなかったのね。

つまり、トン吉が参照する私のブログのRSSは、あまりにも短い抜粋だけなので、使える語彙が大変限られていたのが、トン吉のしつこい俳句の原因だったんですよ…。

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November 07, 2005

本田美奈子.、逝く

AVE MARIA by Minako HONDA今月6日午前4時38分、歌手の本田美奈子.(ほんだ・みなこ・どっと)さんが、 急性骨髄性白血病のため、帰天されました。

私自身は、2003年に、横浜市青葉区青葉台のTOKYU  SQUAREでの彼女のコンサートの入場券に、選に漏れたのを機に購入したアルバム 『AVE MARIA』(←写真上:収録タイトル一覧は、こちら)以前には特に関心が無かったのですが、元アイドルであり、ロックシンガーでもある異色の歌手・本田美奈子が「アヴェ・マリア」を歌っている、と言うので、俄然、注目していたのでした。実際、このアルバムは各方面から絶賛されたようです。

AMAGING GRACE by Minako HONDA.そして昨日の突然の訃報。闘病の事実は、どこかで読んで知っていましたが、 先月10月にはミニアルバム 『AMAGING GRACE』(←写真下)を発売、本人は希望を捨てず、真剣に復帰を目指し、 最期まで病魔と闘っておられた、と言うだけに、「逝ってしまったか…」と無念さが残ります。

さて、各方面での報道でも気になったのが、芸名の最後に付いている「.(ドット)」。asahi.comのニュース 38歳本田美奈子さん死去、白血病での末尾の略歴に、その改名の経緯が<04年11月に姓名判断で「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」といわれ、名前の最後に「.」をつけて改名>と説明されていました。

それなら、改名から、本年1月12日に病気が発見されるまで、わずかに2ヶ月。死去までたったの1年。彼女は、ある意味、既に2003年には、音楽のジャンルを超えた、ひとつの頂点に到達していたのではないか、と考えているのですが、「輝ける未来」なんて、いったい、何のための姓名判断・改名だったんだろうなぁ…、って思います。

本田美奈子さんが、天国でも、その天賦の歌唱力で活躍されることを、お祈りしたいと思います。

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October 16, 2005

風邪ひき、丸10日

昨日15日土曜日は、大聖テレジア(アビラの聖テレサ)の祝日でしたが、まだまだ風邪です。こんな長引くのは、四旬節以来。熱で寝込んでいるうちに、3つの仕事がお流れになってしまいました〜(ヒュルリ〜)

こんな閑古鳥の鳴いているブログにトラックバックして来る人がいるので、「物好きな…」と思ったら、アダルトサイトへのスパムでした。即刻、アクセス制限かけてやりました。こういうのは@nifty当局は規制かけてくれないのかな?希望者があったら、スパム・トラックバックのIPアドレス一覧を公開したい位です。また、他の人の持っている情報も共有したいもんです。

あんまり変なこと書くと、「トン吉」が変な言葉を覚えてしまうのが困りもの。最近も、どこで覚えたのか、「くし(=proxy、代理接続サーバ)」なんて言い出しているし…。

明日、日曜日は、薬でも飲んで、這ってもイザッてでも、友達の英会話教室に行って来なくては…。大してコンサルティングしてないんだけど…。そして勿論、ミサにも、ね。

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July 06, 2005

【現代社会と霊性】1.神の創り給うたこの世界

人間の目の角膜に「前駆細胞」発見、修復治療に光 (2005年5月19日   読売新聞)

新しいコーナーを始めます。

2002年11月、長年(27年ほど)使っていたHOYAの酸素透過性ハードコンタクトレンズを、メニコンのメルスプランに変えました。会費制で、年に一度は新品のレンズに換えてもらえると言うのも、魅力的でした。

その時、コンタクトレンズを処方した眼科医から、ある衝撃的な宣告を受けました。「角膜の細胞がとても少なくなっている。週に3日はコンタクトを外して下さい。このままだと、将来、失明する恐れがあるし、年を取ってから白内障の手術をしようと思ってもできなくなる」と。

生命にはかかわらないものの、何だが取り返しの付かないことがこの身に進行していたことを知らされ、本当に目の前が真っ暗になったような気がしました。まぁ、ド近眼ではありますが、いつもどおりに、目は見えてはいても、モノの考え方が悲観的になりがちになりましたね。だって、いずれ目が見えなくなるかも知れないなんて…。コンタクトはこれまでも何度も作り変えてきましたが、こんなに大事なことを教えてもらったことはなかったのです。これも、ショックでした。もっと早く、せめて5年でも早く、警告されていたら…。長い寿命は望みませんが、視力のない人生はとても想像できません。

そうなると、けっこうナリの気になる方だった私も、これは一大事、と、コンタクトの代替として新しく作ったメガネばかりをかけて過ごすようになりました。メガネはフレームがある分、視野が狭くなるようで、また、絶えず、鼻の上でずれ動くので、しょっちゅう指で押し上げる、どことなく嫌味な癖が付いてしまいました。鼻に赤い跡ができるのも嫌ですね~。あまり度をきつくすると頭痛や目眩がすると言うので、わざと度を下げて、0.6程度しか、視力が出ないようにしたメガネです。焦点がまっすぐ視線の延長線上にやって来ないのも嫌だし、ズレるのが気になるものだから、何だかいつも、余計なところに注意力を奪われているような気がして、仕事でもケアレスミスが頻発するようになりました。その際、上司から「貴方のようなメガネをかけている人って、ミスが多いのよね」なんて言われることもありました。…おおお、何たる受難!

と、ある日、うちで購読している日経新聞を開くと、上のタイトルで紹介したのと同内容の記事が。その時、私の感じた気持ちが想像できるでしょうか? 実際にその技術が応用されて、私の角膜を再生してもらうのはそんなに近い日ではないかも知れないけれど、「諦めないでいい」と、希望の光が与えられたような心地がしました。これぞ、光明。これぞ、神様のご配慮くださった奇跡。

信仰の世界には、ルルドの泉での奇跡的な治癒だとか、いろいろな奇跡が起こっており、奇跡には、ルルドの水にしても、やれ、これは水の結晶がどうのこうの、超深層水と同じ構造になっているとか何とかかんとか、科学的に説明をつけようとする試みが付いて回るようです。

しかし、科学的に説明が付いたからと言って、それで奇跡で無くなる訳ではないんですね。たとえば、「処女懐胎」と言う神秘にしても、化学物質で未受精卵を発生させると言う具合に、「処女懐胎」と似たことを引き起こすことができると言うのをどこかで読んだことがありますが、科学の力で人間がこれまで不可能であったことを可能にしても、これまで人間には不可能であったのに「起きた」と言うその不思議さがなくなるものではない。

たとえ、私がルルドに巡礼に行って、ルルドの水で目を洗い、それで角膜が癒されたとして、それが医学的には何らかの化学的な作用が角膜の前駆細胞に働いたためだ、と説明されたとしても、そのようなお膳立てを、既に人間のDNAにその発祥の昔から仕込んでおいた神様はやっぱりスゴイ!と思えるのです。

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April 20, 2005

新しいパパ様!

New Pope日本時間の今日未明午前1時過ぎ、コンクラーベが終了し、約45分後には、ドイツ・ ミュンヒェンの大司教であられるラッツィンガー枢機卿が新しいパパ様に選ばれたとの発表がありました。 ペトロの後継者である第265代ローマ教皇の誕生です。

教皇の選挙権・被選挙権をもつのは80歳未満の枢機卿(カーディナルCardinal。ラテン語で「心臓」を意味するCor =医学用語では「Cardio-」という接頭辞で頻出=、あるいは、「要め・蝶番」を意味するCardoが語源で、教会の中枢・ 心臓部を表わし、心臓を現す赤い色の聖衣を纏う)で、枢機卿と言っても、日本人の白柳枢機卿様(東京大司教区)と、濱尾枢機卿様(横浜教区; 濱尾元侍従長の弟さんです)、それと、預言の真正性と言えば必ずコメントが登場する(^_^;)教理庁長官で、あの素晴らしい 『カトリック教会のカテキズム』の編纂委員長も勤められたラッツィンガー枢機卿様(ミュンヒェン大司教区、 元教理庁長官)のお三方くらいしか、お名前を存じ上げなかったので、知っている方が選出されて、本当にビックリ!
いろいろ揉めていた(?)秋田のマリア様の御出現についても、「秋田の真正性については、何も問題はありません」 (*)と太鼓判を押されたこともある方なので、好感をもっていた枢機卿でした。

* 実際、 問題となっている御出現を管轄する教区の司教がしかるべき慎重な調査を行って認定を下したものの真正性は覆るものではありませんが、 秋田を管轄する新潟教区の司教様の交代の際に、前の司教様の認めたものを覆すかのような、不透明な動き(?)があったようで、 一部に動揺が見られたらしい。

新しい教皇様の称号は「ベネディクト16世」。私のクリスチャンネーム「十字架のテレジア・ベネディクタ」 の一部と重なることもあって(聖エディット・シュタインは、修道名を決める際、はっきりと聖テレジアと聖ベネディクトを念頭に置いていた)、 ますます、嬉しいです。

さて、私情はさておき(^_^;)、しかし78歳というご高齢です。
亡きパパ様ヨハネ・パウロ2世の右腕として、第2バチカン公会議の精神に則った改革を引き続き遂行し、「教会の一致」 と世界の平和を推進されていくと言う責務を全うされるよう、衷心より、祈りでもってお支えしていきたいと思います。

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April 08, 2005

パパ様追悼ミサ

皆様、お久しぶりです、やっと昨日(2005年4月19日火曜)あたりから、薬なしでも熱が下がり、鼻水も治まり、 快方に向かっています。

さて、バックデートになりますが、4月8日金曜日、午前11時から東京都文京区関口の東京大司教区カテドラルの主聖堂・聖マリア大聖堂(椿山荘の向かい)で行われた「教皇ヨハネ・パウロ2世追悼ミサ」に行って来ました。 その詳細については、カトリック中央協議会の公式ホームページをどうぞ↓
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/news/index.htm

SuperVisionCar会場に着くと、既に来賓で聖堂の中の会衆席はいっぱいで、私たち一般の会衆は、聖堂外の広場でミサに与りました。中のミサの様子は、左のような車の車体の大きなスクリーン上に映し出されていました。 これはこれで、なんか、ヴァーチャル・ミサのような感じですが、しかし、建物の中と外と言う違いこそあれ、帰天されたパパ様を送ると言う同じ心(意向)で一致して、同じ場に集い、同時進行のミサに与っている訳ですから、価値に差はありません。
それにしても、駐車場の桜の見事なこと! 春の正午近いうららかな陽光の下、風の吹くたび、花びらがはらはらと静かに舞い、亡きパパ様の御国への旅立ちを祝福しているようです。
ミサは粛々と進行し、先の主日で今年はこれで歌い終めと諦めた私の最も好きな聖歌「復活の続唱」も、外の会衆と一緒に歌うことができました。
聖体拝領の時間になると、中の聖堂から神父様が出てきて下さり、外の会衆も拝領に与りました。


Small Chapel for Popeミサが終わると、献花になり、聖堂内の方々が済むと、ここでやっと中に入ることができました。それでも、まだ聖堂にいた方々の献花を待つ列が聖堂後方まで続いており、まだまだ待つことになりました。
聖堂後方、祭壇向かって右側の一角(大聖堂入り口に最も近い箇所)には、パパ様のための小さなチャペルのコーナーが設けられており、 天井から日の光が差し込み、慎ましやかな祈りの場になっていました。


追悼ミサ祭壇←大聖堂内、追悼ミサの祭壇方向です。
勿論、聖堂内では携帯電話の電源を切らなくてはなりません。が、ミサも終わり、人々は記念写真モードに入っています。中には、大きなハンディカムを持ち込んでいる人もいますね。
私も恐る恐る、カバンの中の携帯に、「電話」としてではなく「カメラ」として電源を入れ(勿論、マナーモードで)、撮影してみました。 とにかく大きな聖堂なので、携帯のカメラでは、祭壇上のパパ様の遺影までとても届いてませんね。大きなロウソクと、その左下に、パパ様の遺影がかすかに見えます。


献花の列献花の順番を待つ人々の列です。私の順番もなかなか、来そうにありません。
(^_^;) 私の前後の方々も、シビレを切らしたのか(?)、撮影する多彩なシャッター音がパシャパシャ聞こえてきました。あまりにも列が長いので、私まで献花用の花が残っているか心配でしたが、大丈夫でした。


ルルド無事、献花を終え、聖堂を出て、駐車場と信徒会館の間にある見事な「ルルド」に向かいました。なんと、フランスの、マリア様が現れた本物のマッサビルの洞窟と実物大なんだそうです。ミサが終わっても、多くの信者さん方が残り、マリア様にロザリオの祈りを捧げていました。

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April 05, 2005

パパ様、帰天

とうとう亡くなってしまわれました、パパ様。

カトリック信者は、教皇様のことを親しみをこめて、「パパ様」とお呼びしています。
私が生まれた当時の教皇は、第二バチカン公会議を召集されたヨハネ23世でしたから、それからパウロ6世、ヨハネ・パウロ1世、ヨハネ・パウロ2世、と代が代わられたことになりますが、私が洗礼を受けたのは1999年4月3日の復活徹夜祭ですので、 私にとってはたった一人のパパ様です。

1981年には来日もされ、四谷の上智大学や、広島の原爆ドーム等、訪問されたそうですが、当時、大学浪人中で、 成人式にも行かなかった私には、どこ吹く風でした。

が、洗礼を受けた途端、それが180度変わって、大変大きな存在となりました。
2000年には大聖年(The Great Jubilee)を宣言され、 数々の巡礼や免償(告解や真摯な痛悔によって既に赦されている罪に対する、有限の罰の免除;すなわち、 死後のお浄め=煉獄に行く時間が短くなるor乃至は、煉獄に寄り道せずにストレートに天国に行ける;この免償の功徳は、現在、 煉獄にあって浄化の苦しみにいる霊魂の為に譲ることもできる)には、パパ様への畏敬の念を持って、参加させていただきましたし、 パパ様の数々の著書:回勅や使徒的書簡には、大いに勇気付けられたものでした。

晩年、俳優マイケル・J・フォックスがドラマ『スピンシティ』を降板する原因となったのと同じ、 パーキンソン病という神経を侵される病に苦しみ、往年の闊達さを欠いた、おいたわしいお姿となりましたが、 最後まで世界平和の為に尽力された偉大な方でした。

私の洗礼名は、「十字架のテレジア・ベネディクタ」ですが、これはアウシュビッツのガス室に消えたカルメル会の修道女にして、 現象学を開いた哲学者エドモンド・フッサールの一番弟子:エディット・シュタインの修道名からいただいたものです。このエディット・ シュタインは、パパ様ヨハネ・パウロ2世聖下によって1998年10月、列聖されました。パパ様御自身、マスコミからの「好きな哲学者は?」 の質問に「エディット・シュタイン」とお答えになられることもあって、ご両人びいきの私としては、ことのほか嬉しくなったものでした。

来る教皇選挙

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March 27, 2005

御復活、おめでとうございまーす

いやぁ、御復活ですねぇ〜。おめでとうございます。

まだ風邪が治り切ってなくて、おまけに花粉症がますますひどくて、いまだにパソコンの電源を入れていないんです。
ちょっとこれは、94年観測開始以来の、「自分のパソコンをいじらなかった日数」の記録になるかも知れません。

さて、御復活です。
ハリストス教会=ギリシャ正教では、まだのようですが、西方教会=カトリックとプロテスタントでは、今日(春分の日の直後の日曜日)が、御復活です。

この双方の食い違いは、(西欧世界がグレゴリオ暦を採用して以来の)暦の違いに基づくものだそうです。

バッスーラ・ライデンと言う昨今の預言者の本("True Life in God"『神のうちの真のいのち』)によると、主は御自分の神秘体である教会が一致し、同一の日付で復活を祝うことを望んでおられる、と言うことだそうですが、では、どちらの日付が正しいのかは、その本では教えてくれません(多分)。

ちなみに、この預言書(私的啓示)は、教会の正式に認めたものではありません。
(ただ、東西両教会の一致のために、両教会当局・高位聖職者らと精力的に対話を続け、祈りの集いを行っているようです)

そう言えば、「異なる日付」で思い出されるのが聖母の誕生日です。

現在、カトリック教会では、9月8日にお祝いしていますが、ボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエ村に御出現されたマリア様は、村の子供達に、本当の誕生日は8月6日(5日だったかな?)である、と告げたそうなのです。
これも、暦ゆえの食い違いなのかしらん?

こちらの御出現も、教会未公認ですが、御出現そのものが現在もまだ続いているため、真贋の鑑定をするにも、まだ調査ができないでいるようです。
私的な巡礼は認められており、パパ様(教皇ヨハネ・パウロ二世)の祝福についても、どこかの本で読んだことがあります。

もう一つ、誕生日と言えばクリスマスですが、こちらが主イエズス(日本のカトリック教会でも公式には「イエス」ですが、伝統的に「イエズス」と言う表記や呼称に慣れ親しんでいるのは、ラテン語からの音訳だからです)・キリストの本当の誕生日「ではない」ことは広く知られています。
が、本当の誕生日がいつなのか、については、「羊飼いらが野外で夜通し羊の番ができる季節だろう」ぐらいの話しか、聞いたことがありませんでした。
それが、最近、スカパーのディスカバリー・チャンネルの番組の中で、聖書に現れる東方の三博士についての記述の、占星術的な解読と天文学による天体の位置の割り出しとで、正確な日付を計算していたのです。
それによると、本当のクリスマスは、紀元前6年の4月17日だそうです。
となると、その半年前とされている洗礼者ヨハネの誕生日も、10月17日となり、全く夏至なんかじゃなくなりますし、「聖ヨハネ祭の夜」なんてロマンティックな響きもなくなるだろうし、抗鬱作用があると信じられているサプリメントの「セントジョーンズワート」(夏至の頃に花が咲くから、らしい)も名前を変えなくちゃいけなくなりますね。

さてさて、マリア様の本当の誕生日については、聖書の中にもヒントがなさそうなので、天文学的に計算してみせる、と言う訳にもいかないようです。

御復活のお祝いだけで、すぐ終ろうと思ったのが、長くなりました。
ま、何はともあれ、おめでとうございます!

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March 25, 2005

あーあ、聖週間・・・

明日は、聖金曜日、「主の御受難」だと言うのに、風邪が治りません。

今日も、なんとか、「主の晩餐」の典礼に参加して来ましたが、電車に乗っていても、クシャミと鼻水が止まらない…。

もちろん、花粉症もあるかな…。
花粉症とはかれこれ20年以上の付き合い、昨今、症状が軽くなっていたので、テニスで鍛えた成果…、と思っていたのですが、昨年は、5月に帯状疱疹(タイジョウホウシン)なんて、子供の頃かかった水疱瘡の逆襲を受けちゃって、ただ単に、免疫系がダウンしてただけだったのだったりして…。

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February 21, 2005

【本日の福音】ルカ6:36-38

いやぁ、はっはー、もう、す~~~っかりご無沙汰してしまいましたねー、【本日の福音】。とうとう、「今月の福音」に近づいて来た感があります。

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)
※どうも、「ルカ6:36-38」へのフラグがないみたいで、今日は、福音だけでなく、第1朗読・詩編も含めた朗読箇所のページを使います。 (と言ってるうちに、年末となり、朗読箇所のリンクが無くなってしまったので、ルカ第6章全部載っているページのリンクを貼っておきます。2005.12.12)

今日扱うのは、イエス様が「御父のように憐れみ深い者になりなさい」「人を裁くな」「人を赦し、人に与えなさい」と教えられる場面です。

とても難しい教えです。言葉は簡単ですけどね。特に「人を裁くな」が難しいのではないでしょうか。
日本人は、西欧ほど個人主義が強くない代わりに、義憤に駆られる人・正義感の強い人が多いと言う気がしているのですが、洗礼を受けてクリスチャンになろうと言う人は、何がしか、善悪だとかこの世の不正義ということに敏感で、人一倍正義感の強い人が多いのではないでしょうか。しかも、自分の潔癖さに人の何倍も気を遣うあまり、他人を断罪してしまい、 真に断罪する権限をお持ちなのは主お一人だと言うことを忘れ、傲慢の罪に陥ってしまうこともよくあるような気がします。
実際、カトリック信者同士でも(と言うより、金持ちもいれば貧しい人もいる人間社会の縮図のようなカトリック信者だからこそ、と言うべきかも知れませんが)、気心知れた者同士が面と向き合えば、そして周囲にシスターや神父様が見当たらなければ、とかく他人の批判に走りがちです。若い男性信者が主婦の井戸端会議のように雁首並べて他人の悪口を言い合っているのはあまり見たことがないのですが(もっとも、そんなタメ口を聞く様な男性信者の知り合いはいませんけど)、女性信者だったらもう、告解ネタに事欠かないんじゃないか、と思うほど日常茶飯です、マジ。ああ、反省、反省、反省しきり、です。
多分ね、口を開く時には他人の悪口を言うようなつもりはないのでしょう。共通の知り合いにちょっと心配な人がいる。こんな問題行動・発言があった。ああいう態度は注意した方がいいのではないか。あの物言いは人を傷つけるのではないか、配慮に欠けるのではないか、云々かんぬん。私も相当、お節介焼きな方ですから、喋り出すと、他の人について見た話・聞いた話があれよあれよと次から次へと出て来てしまいます。「良かれ」と思って、後々、その対象の人に会った際に教え諭す・気をつけて見守るつもりで話題に上げるのですが、結局、肝心の隣人的助言は後には続かなくて、その前段階の根回し・情報共有で終わってしまって、喋った後はなんだか自分が良い信者であるような気がして、スッキリ、なんてことが往々にして起こりがち。
これでは排泄行為と変わりませんね。汚いものを放り出して、カタルシス。大事な祈りが伴わない。
カトリック信者は、まず、祈りの人でなくてはなりません。議論や作業に取りかかる前に、まず膝まづいて(そこまでしなくても、最低、十字の印を切り) 祈りを捧げ、正しい判断ができるよう聖霊の照らしを乞うのがあるべき姿でしょう。信者仲間での会食でも、食前の祈りを忘れることもしょちゅうだし、なかなかできませんけど。
しかし、悪魔が聖母に化けてある神父に現れた時に、誘いに乗る前に「まず一緒に祈りましょう」との神父の促しに、悪魔が正体を現し、悪態をついて去って行った、と言うエピソードが、何かの聖人伝にありました。
祈りは識別の第一歩です。告解しさえすれば何もかも赦されると思うのではなく、そもそも罪や過ちに陥るのを防ぐために、たとえ一瞬でも心を神に揚げる習慣をつけることは、とても大切なことだと言う気がするのです。そしてそれは、聖堂に入る前に額に聖水を付けて十字を切るより、もっと大事なたしなみなのではないでしょうか。((-_-;)自戒、自戒!)

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「パッション」再び

passionアメリカでは昨年の四旬節と共に公開されたのに関わらず、日本では翻訳のせいか、季節的には聖霊降臨~と言う5月まで待たされた映画『パッション The Passion of the Christ』ですが、昨年12月23日のDVD発売後、ここに来て(四旬節だから?)、俄然、話題を呼んでいるようです。映画『パッション』について語られているサイトを集めてみました。(ブログばかりではない上に、これだけ多いと、とてもトラックバックし切れません~)

映画パッションの解読 メル・ギブソン監督
http://www.kabasawa.jp/eiga/other_films/2004/passion/passion.htm
 ※映画『パッション』について徹底的に解読されているサイト(メルマガ?)。勉強になりました。

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箱舟の記念日ですか…

アシュレ|AY YOLU 日記
※注:現在、この方のブログは、内容完全刷新の上、再開されており、私がトラックバックした記事は公開されておりません。

初めて、@niftyココログ以外のブログへトラックバックしてみます(祝!)

ここ数週間鑑賞したDVDの中に『天地創造 -in the Beginning...-』と言うのがあるんですが、その中でもいちばん好きなシーンがノアの箱舟のシーンでした。ノアの箱舟の遺物が、トルコ領内のアララト山(…でしたっけ?)の山頂に遺されている、と言う話をどこかで読んだことがあるんですが、それ以外にも、実はトルコと聖書中の出来事とは、深い関係があるんですね。

例えば、キリストの磔刑~復活以降、聖母と弟子たちはエルサレムの、最後の晩餐に使われた「高間」(Ceanaculum、ラテン語で「チェナクルム」ともイタリア語で「セナーコロ」とも音訳される)に集まり、一心となって祈っていて五旬祭(Pentecoste)の日曜に聖霊降臨を迎え、これが教会の始まりとされているのですが、その後、使徒ヨハネに引き取られた聖母マリアは共に、「小アジア」トルコのエフェソスに赴き、そこで後半生を過ごされたと言われています。

そのエフェソスでの聖母の暮らしの様子などを、近代の何人かの示現者(ヴィジョニスト)ら、例えば、ドイツのカテリナ・エンメリッヒ(エンメリックとの表記もあり)や、イタリアのマリア・ヴァルトルタ(ワルトルタとの表記もあり)が遺しており、特に、国際的な調査隊が組織され、一生ドイツを出ることのなかったエンメリッヒの示したヴィジョン通りに、エフェソスに「聖母の家」とされるレンガ造りの慎ましやかな家が発掘された(Web上では、例えば、こことかここで見ることができます)ことは、感動的なことでした。

ところで、私事ですが、先月だったか、カリフォルニア在住のうちの妹が「ケーブルテレビのドイツ語のチャンネルに、変な言葉の番組が映る」と言って来たことがきっかけになって、私と妹の間で、「トルコ語・プチブーム」が起こったことがありました。妹は、生の素材を使っての本物の語学修得に関心があるので、テレビを見ながら本物の表現を学べるのならそれに勝ることはない、と思ったのでしょう。(その後、勉強がどうなったか、聞いてませんが)

妹は、料理も好きなので、早速、このトルコ料理「アシュレ」の料理法のことも知らせてあげようっと。

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February 12, 2005

御受難後を描いた映画…?

…御受難後・使徒行録の時代を描いた映画と言えば、ネロ帝治世下の迫害を描いた「クォ・ ヴァディス」ですが、アメリカ映画(1951年)、ポーランドとの合作映画(2001年)と2つあるうち、新しくて超大作の (連続ドラマとして製作されたらしい)、後者の『 クォ・ヴァディス』(このサイトの予告編はうまく繋がらないみたいです。 リンク切れかな?)方を探していたのですが、昨日の amazonでは品切れだったので(今見たら、3~4日で発送、とあります)、他を当たることに…。

結局、送料無料やYahoo!ポイントサービス等の点を考慮して、「yamagiwa soft」が二番目にお徳に見えたのと、更に、カリギュラ帝治世下の迫害を描いた『 聖衣』 が予約して4月8日の発売まで待てばamazonよりも安いと言うことだったので、ここで買うことにしました。

この続編として『 ディミトリアスと闘士』 というのがあるらしいのですが、『 聖衣』 で殉教した貴族マーセラスの持っていたキリストの聖衣が奴隷である剣闘士ディミトリアスの手に渡ったことで、 追跡の手がディミトリアスに及び…、と言う迫害の「チェーンレター」あるいはホラー小説「リング」的設定がなんとも可笑しいし、 カスタマーレビューでもあまり良く書かれていなかったので、今回はパスしちゃいました。

が、上の2つの注文ついでに、『 キング・オブ・ キングス』も注文しちゃいました…。(^_^;)[…って、御受難後、じゃないじゃん]

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四旬節キリスト教映画漬け~

四旬節とあって、ここのところ、キリスト教関連、聖書関連の映画を集中的に見ています。

今週見たのは、

① 『 天地創造』と、
② 『 十戒 スペシャル・コレクターズ・ エディション』、
それに、
③ 『 パッション』 です。

ホントは、『 天地創造』『 十戒』 を見た後に、しばらく、旧約時代のエピソードを映画にしたものをみたかったのですが、見つかった作品( 『 サムソンとデリラ』『 ソロモンとシバの女王』等がありました) の質に満足できそうになかったので、いきなり新約時代に飛ぶことになりました。

今後の予定としては、あまり、キリストの受難でも同じ『 パッション』 ばかり繰り返し繰り返し短期間に親に見せることになると辟易されても嫌なので、これはまた忘れた頃に見ることにして、

④ 『 ナザレのイエス』:オリビア・ハッセーが聖母として出演の、 6時間11分にも及ぶ超大作(amazonには無いみたいです;「Yahoo!ショッピング」で扱っている「DVD/GAME S-PREMIUM」と言う店舗が¥6,069と安いみたいですが、取り寄せになります。急ぐ方は、可能ならば、 四谷のサンパウロ書店かイグナチオ教会売店、銀座の教文館書店に走るといいでしょう。おまけに『Who is  Jesus』 と言う別のビデオが付いていたりします)、
⑤ 『 偉大な生涯の物語〈特別編〉』: キリスト役にマックス・フォン・シドー、洗礼者ヨハネ役にチャールトン・ヘストン(…『 十戒』 でモーゼ役だったのに…;ま、『 十戒』 でのエジプト王ラメセス二世は、『 ソロモンとシバの女王』ではソロモン王ですが…)
を見ることにしようかな。

…そして、復活節のあたりになったら、もう少し時代の下ったものを見たいと思ってるんですが…。

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February 11, 2005

世界病者の日

今日は、2月11日
1858年にフランスの田舎町ルルドの近郊のマッサビエールの洞窟で、聖母が「無原罪のマリア」として羊飼いの少女・ベルナデッタに現れ、人々の救いの為にロザリオを唱えるべきこと、そして、そこから湧き出た泉の水によって病者が癒されることを示された日で、カトリック教会ではそのことを記念して、「世界病者の日」としてお祝いします。
この聖母出現は、教会当局によって正当なものと承認され、ルルドは世界的な巡礼地となっています。

ちなみに、おとといの2月9日は「今年の」「灰の水曜日」でした。「灰の水曜日」とは、春の御復活祭に向けて祈りと犠牲(断食など)で準備をするべき40日間(日曜日は除くので、御復活の46日前)を「四旬節」(英語ではLent、フランス語ではcare^me)と言い、その最初の水曜日は、頭から灰をかぶって、己の罪を悔い改める日、とされています(実際には、おでこにちょこっと棕櫚Palmの枝を燃やして作った灰を塗ってもらうだけですが;この灰は、前年の御復活祭の一週間前の日曜日「枝の主日」のミサの開始時に、「キリストのエルサレム入城」を市民らが棕櫚の枝を振ったり通り道に敷いたりして歓迎したと言う故事を再現するのに使った枝を再利用します)。御復活祭は、「春分の後の新月の直後の日曜日」とされている為、毎年日付の動く「移動祝祭日」の代表です。その為、「灰の水曜日」も毎年、日付が変わります。

なお、(南米を含む)ヨーロッパの文化圏では、断食(特に、肉食を断つこと)の勧められる「四旬節」の始まる前に、大ご馳走のパーティや乱痴気騒ぎを楽しんでおこうと「カーニバル」(謝肉祭)の風習の残る地域がありますし、フランスでは特に、「灰の水曜日」の前日を「Mardi Gras」(マルディ・グラ、肥え太った火曜日)と読んで、ご馳走を食べる日として楽しむ習慣がありますが、これらは、勿論、まったくカトリック教会の行事ではありません。

ところで、ハリウッド俳優イーサン・ホークが"Ash Wednesday"(灰の水曜日)と言う小説を書いているらしいのですが、私はまだ未確認です。(^_^;)

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February 09, 2005

新しいブログ:【試訳】ピオ神父のカテキズム、始めました~

2月から「ココログ・プラス」に契約変更し、アフィリエイトが可能になっただけでなく、複数のブログを編集・公開できるようになりました。
そこで、暫定的に「資料置き場」的位置づけですが、イタリア語信心書の勉強サイトを作ってみました。当面は、邦訳のない『ピオ神父のカテキズム』を取り上げます。イタリア語原著で367頁ほどあり、おそらく遅々として進まないとは思いますが、少しずつ訳してみます。
なお、最初のご挨拶だけ、以下に引用しておきます。続きは、
http://raphaella.cocolog-nifty.com/pio/
でどうそ。


イタリアの生んだ20世紀最大の聖人と言えば、(聖痕の)聖ピオ神父(パードレ・ピオ)でしょう。

ピオ神父については、イタリアでは、既に生前からいろいろな本や記事が出されていましたが、日本では、2002年の列聖までは、ほんの数冊の伝記があるだけで、主に、聖痕やバイロケーション(二ヶ所同時存在)、スミレの芳香と言った不可思議な現象や、過酷な迫害を紹介する内容のものでした。
列聖後になってようやく、ピオ神父自身が生前、霊的指導者として何を語ってきたか、に焦点の当てられた「信心書」がポツリポツリとカトリック系書店に並ぶようになりましたが、ここに取り上げる『ピオ神父のカテキズム』は、イタリアにおいて精力的にピオ神父を紹介しているRenzo ALLEGRI氏が、ピオ神父の膨大な書簡集の中からカトリックの教えや、完徳に資する助言などの部分を抜粋、分類したもので、言わば、ピオ神父自身の指導による霊的読書や黙想ができる、願ってもない好著です。

さて、頃も四旬節(今年は2月9日が「灰の水曜日」です)、果たして3月27日の御復活祭までに読み終わるかどうかわかりませんが(なにぶん、イタリア語は私にとって第4外国語でして、得意とはとても言えない言葉なのです)、この犠牲と祈りの季節に、第13章の「苦しみとは何ですか? 豊かさとなる不正」から挑戦してみたい、と思います。


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January 31, 2005

BIGLOBEウェブリブログより

以下は、BIGLOBEウェブリブログで2005年1月3日に公開した投稿です。


ども、BIGLOBEでのホームページ 「ラファエラ記念資料館」管理人「ラファエラ姉さん」です。

BIGLOBEのサービス「ウェブリブログ」の利用を開始するにあたり、ブログタイトル「霊妙なる器」について、ご紹介をば。

「ラファエラ姉さん」こと、私めは、カトリック信者です。
カトリック信者でありながら、同時に1社会人として、信仰上の話題に限らず、ビジネスについても真剣に考えてみたいと思います。
また、信者として、そのような社会貢献のあり方も可能なのではないか、と信じています。

そのようなメッセージ発信の場を作ろう作ろうと模索し続けて来ましたが、もしそんなウェブサイトを作るなら、そのサイト名として、聖母マリアの聖なる御名のひとつ「霊妙なる器」(Vase Spirituale)を採用しよう、とかねてより決めていたのでした。

信者として、日常的なつぶやきを投稿するブログは別に用意しました(「ラファエラ姉さんのウェブログ」)し、こちらの方は、もっぱらビジネス、特に、マネジメントに関する話題が多くなると思います。
が、その場合でも、観想(テオリア)と実践(プラクシス)において比類なき模範であられた聖母マリアから離れないよう、常に立ち返る初心としたいと思うのです。


(引用終わり)

なお、上記「ラファエラ姉さんのウェブログ」は、本日より、ブログタイトルが変わり、「日常的なつぶやき」だけのサイトではなくなります。 (^_^;) 勿論、【本日の福音】のコーナーも随時、継続していきます。

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January 18, 2005

DVD『親分はイエス様』観ました

Mac miniなんかはどうでもよくて、昨日1月17日は、阪神大震災10周年でした。うちの父の80歳の誕生日でもありました。 父の誕生日と阪神大震災の日とが同じ日なんて、毎年いつも、複雑な気持ちです。

あの時、私は京都の下宿にいて、朝5時半に目が覚め、午後から神戸の大学院の演習で発表する予定だったレジュメに最後の手直し( 「泥縄」とも言います)をするべく、パソコン(当時は、Compaq Presario 433)に電源を入れた、その直後でした。 マッチ箱を狭い面を底面にして横に置いたような、細長いうなぎの寝床のようなマンションもかなり派手に揺れました。 なんだか泥縄の作業も嫌になっていた頃で、「こりゃ京都大震災だ、震度はどれ位だったんだろう?」とテレビを点けたら、 神戸が燃えていたのでした。「…どうやって、学校まで行こう…」。もう、学校どころの騒ぎじゃなかったですけどね。電車止まってたし、 いつも下車していたJR六甲道の駅はものの見事に潰れちゃってたし…。

それから阪神電車が青木まで復旧するまで、私の体は不思議と動き出しませんでした。震災の起こる10年位前には、 大阪の身体障害者の介護とか、釜ヶ崎の労働者の為の支援だとか、今で言うところの「学生ボランティア」に精を出していた私ですが、 目の前で京大生たちがボランティアに動き出していても、自分の在籍校が被災していると言うのに、 まるで何かに麻痺したように活動に参加することができないでいました。京都を捨てて神戸の大学院に進んだこと自体、自分には大バクチで、 神戸まで通学するのにかなりのテンションを必要としていたというのもあるのでしょう。震災で、まるで凧糸でも切れたみたいになってしまって、 腑抜けた日々を送っていました。

さらに、翌年の1996年1月20日頃、京都を10年に一度あるかないかの猛烈な寒波が襲いました。水道管も凍るほどでした。 うちのマンションも排水管が破裂してしまい、急遽、引越しを余儀なくされました。 引越しの荷造りで壁に並べた大きなスライド本棚を除けて見ると、コンクリートの壁に大きな亀裂が走っているのが壁紙の上から見えました。

それだから、震災は、テレビで聞かれるように「忘れる」だとか「忘れない」だとかの対象ではなく、 何かもっと私の奥深いところに突き刺さった「棘」のような出来事なのです。

しかし、そうは言っても、1月17日は父の誕生日。しかも、80と言う大台です。本人は嬉しくないかもしれませんが、 何かささやかなお祝いをしてあげたい、とかねて買っておいたDVD『親分はイエス様』 を鑑賞することにしました。「アーメンソーメン」嫌いな父ですが、配役は渡瀬恒彦あり、ガッツ石松あり、中村嘉葎雄ありの、 父の好きな俳優での豪華キャストです。これが何かの「やり直し」・生き直しのきっかけになったらいいな…、と思います。

(別に、これが連載【本日の福音】をサボってる理由じゃ、ないですよ)

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January 15, 2005

【本日の福音】マタイ1:29-2:17(水-土の4日分)

…いよいよ、【本日の福音】が「今週の福音」に近づいて参りました。あ~あ…(-_-;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト マタイ1:29-1:45
New American Bible版テクスト マタイ2:1-17
(全米カトリック司教協議会による)

今日取り扱うのは、多くの病人を癒し、徴税人のレビを弟子にする箇所です。

イエス様はどうして、こんなに多くの病人を癒したのでしょうか? 「神の愛」を体現するだけに、病気で困っている人を見るに見かねて、激しい同情心に駆り立てられたからでしょうか?

そういう理由もないこともなかったでしょうが(…二重否定?)、当時、多くの敬虔なユダヤ人は、病気、特に「重い皮膚病」は、罪ゆえに神から来る罰だと考えられており、律法にも共同体に戻る為には「浄め」が必要、と定められ、「罪深い自分」は神に近寄れない=神殿で神を礼拝することなどできるような、神に相応しい存在ではない、と自己否定に走り、神から遠ざかってしまっていました。

しかし、それは神についての誤った認識です。神様は、慈しみ深い方です。それは、旧約だから「厳しい」、新約だから「愛の神様だ」、とか言う時代区分についての誤った常識には関係なく、太古の昔の最初から、実は、「赦し」の神だったのです。人間が犯した罪を素直に認め、童心の様に神様に立ち返ろうと正しい決心を起こされるなら、先回りして抱き締める用意をして待っておられる方なのです。神様は、永遠に、昔も今も、その性質を変えたりなどなさいません。ただ、人間の方の間違った思い込みが、「神様は厳しい方」と言う、誤った神様像を作り上げていただけです。

その為、イエス様は、人々の抱く神様への認識を正しいものに訂正してあげる必要がありました。そして、誰でも、素直に神に立ち返りたい人は皆、神様との仲直りができるよう、神様へ向かう「道をまっすぐに平らに」してくださったのです。勿論、その準備は洗礼者ヨハネも行いましたが、洗礼者ヨハネは、「罪の赦し」そのものの権限は持っていませんでした。イエス様は、 人間の罪を取り除く権能をお持ちの神様そのものですので、 (普通の敬虔なユダヤ人なら、「近寄るのも汚らわしい」と感じる)病人に対してであっても、罪深い職業とされていた売春婦やレビのような徴税人であっても、彼らに向かって真っ直ぐに歩いて行かれます。

なぜなら、神は、病人を病気ゆえに、人を職業ゆえに「罪びと」だ、なんてお考えではないからです。罪は、人の心より生じるものです。「神様に赦されて、再び神の民に加えられたい」と言う望みを持っていたとしても、人間の限られた理性故に陥っている誤った自己否定と周囲からの偏見、そんなつまらない理由で、欠けがえの無い神さまとの愛の交わり・愛し愛されの相思相愛状態(=「至福直観」 とも言いますが)を放棄し小さく孤独に震えているなんて、そんな哀れな人間の姿は見るに見かねるのです。神との交わりの障害になっているのが、ただ、病気だったり、職業に対する偏見だったりするなら、その障害さえ取り除いてあげれば、御許に戻って来る。自分の枠に囚われている人間にはできないのなら、神の方から歩み寄ろう。神様の愛とは、そういうものです。

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January 11, 2005

【本日の福音】マルコ1:14-28より(2日分)

ここのところ、クリスチャンでない父にキリスト教関係のDVD(とりあえずは『ミッション』『親分はイエス様』 )を見せようと画策していて、この連休の日曜の夜には『天地創造』(原題: "The Bible ...in the beginning")を一緒に見ました。ノアの箱舟のシーンは圧巻でした。この次は『十戒』を見るぞ~(未入手)。2月9日(灰の水曜日Ash Wednesday)から始まる四旬節(Lent、カトリックの復活祭の準備期間で、言わば「祈りと断食」のシーズンです)に『パッション』を見せたいんですねぇ。

そんなこんなで、すっかり投稿のタイミングがずれ込んでしまい、今日は2日分です。(^_^;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

さて、今日のところは、イエス様の公生活の始まり、最初の4人の弟子の召し出し、悪霊の追い出しの場面です。
マルコによる福音書では最初の弟子の召し出しはサラリと書かれているだけで、なんだかこの4人は考えなしに知らない人に付いて行っちゃったみたいですが、ルカによる福音書5:1-11では、不思議な漁とシモン・ペトロの召し出しが詳しく伝えられています。また、ヨハネによる福音書1:35-42では、まず洗礼者ヨハネの弟子だったアンデレが「見よ、神の小羊だ」 と教えられてイエス様に付いて行き、次いで自分の兄弟シモン・ペトロに紹介するくだりが述べられています。 (以上、1/10分)

続く悪霊(「汚れた霊」 )を追い出す場面では、「汚れた霊」が「ナザレのイエス、 (引用中略)正体は分かっている。神の聖者だ」 と叫ぶのが印象的です。私は、霊の世界のことには疎いので(^_^;)、「名指し」のもつ意味とか、この辺の事情に不案内で、なんだか敵がイエス様のことを褒めてくれたみたいな、変な感じがしますです。
この「汚れた霊」は、故人である幽霊(←カトリックでは地獄に堕ちたのでない「煉獄にいる霊魂」は、既に救われていずれ天国に入る浄い霊です)でも、悪魔(サタン、神様に叛旗を翻した堕天使)でもなく、もっと低級な霊的存在のようです。と言うのは、続いてこの出来事を見て驚いた人々が「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と論じ合っているからです。
この発言にも、現代を生きる私たちと、昔の人たちとの言語感覚(?)の違いを意識させられてしまいます。つまり「権威」 (authority)と言う概念です。被造物はすべて神のご命令に逆らえません。神から出る意志命令系統の正統性を表わすものが本来の意味での「権威」です。 (絶対王政の王権神授説は、国王が神の教えに従っている限りは、正統なものでした)
翻って、私たちが考える「権威」とは何でしょう?「権威主義(的)」などと言うとまるで、自分がなく、長いものに巻かれようとする役人根性のようです。しかし、「正しい権威」に従うのは、自由意志の最高の発露です。なんか、カントめいて聞こえますが、話は逆で、カントの倫理性は、キリスト教的な「自由」概念から出発しているのです。 (カント哲学の宣伝をしているのではありません)

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January 09, 2005

【本日の福音】マタイ3:13-17より

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日(=主日)は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面でした。
「洗礼」とテクストにはありますが、教会ができてからの秘跡としての「洗礼」 とは、ちょっと意味合いが違います。教会の秘跡としての「洗礼」は、教会のメンバーに加えられるに当たって、アダム以来の原罪と、その人自身がその日までに犯してきた罪である自罪の両方を、神である主イエス・キリストの権限において、秘跡の執行者を代理人として、まったく浄めてしまう儀式です。「罪の赦し」は神にしかおできにならないので、目には見えませんが、それを「洗礼」という目に見える行為で表現するのが、教会の秘跡としての「洗礼」です。
さて、当時、ユダヤ人の間で宗教的な「禊ぎ(みそぎ)」の儀式として水に身を浸すことがあったようですが、洗礼者ヨハネは更に発展させて、神に対して犯していた罪を「悔い改め」るしるしとして、罪の告白(現在の教会では聴罪司祭による「赦しの秘跡」として行われています)と一緒に施していたようです。
ところが、そこへイエス様がお見えになりました。イエス様は罪など犯したことのないお方です。当然、告白すべき罪もありませんし、「悔い改め」る必要もありません。それでも、人々の模範として率先して、神へとまっすぐに心を向かわせる行為である「洗礼」を受けたかったのです。
「悔い改め」とは、何だか、ややもすると舌を噛みそうな位音節が多くて、難しい響きの語ですが、「改心」とも「悔心」とも「回心」とも言います。「回心」とは、これまで神から離れ私利私欲や自己愛に走っていた私心を捨てて、心を神様の方に向けることです。自分の罪深さに無神経では神様の方を向けませんので、自然、己れの罪深さへの後悔の念と二度と罪を犯したくないと言う決意を伴います。だから「悔い改め」なんですね。難し気ではありますが、「神様の方へ向き直ることだ」と考えれば、今すぐにでもできそうではありませんか?

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January 08, 2005

【本日の福音】ヨハネ3:22-30より

あらら~、だんだんどこのTime Zoneで暮らしているんだか判らなくなってきましたね~。(^_^;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日は、洗礼者ヨハネが衰え、イエス様が栄える、というくだりです。
福音の本筋とは離れるかもしれませんが、私はこのような「証し」が議論されるパッセージを読むと、今の信者と昔のユダヤ人との、言葉のもつ力と言うか重みに対する意識の違いみたいなものを強く感じます。「証言」と「正統性」とがイコールであるかのようで、ある種、羨ましさを感じたりするのですが。
さて、洗礼者ヨハネの台詞に出てくる「花婿」はメシア=イエス様、「花嫁」=敬虔な信者・洗礼を受けに集まる人々、です。これは、たとえ男性であっても、神や神に遣わされたメシアを慕い憧憬れる信者は「花嫁」だと言うのは、もう、聖書のお約束みたいなものです。そうすると、旧約聖書の中の「雅歌」の恋人の歌も、神と信者との熱烈なラブソングと読めるんです。けっこう、艶っぽい詩が多いですが。雅歌も立派な聖書の一部なので、当然、聖務日課(教会の祈り)のテクストですし、厳粛な女子修道院で、お堅いシスターが、俯きながら(心の中で)顔を赤らめながら、唱えたりしているらしいです。が、このような内容が信仰に相応しくないわけではなく、神の愛とは本来、これほど激しいものなのであって、人間の方が勝手に取澄ました冷たいものにすり替えてしまっているのでしょう。

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January 07, 2005

【本日の福音】ルカ5:12-16より

今日は初金でした! 主の聖心(みこころ)を崇敬するため、おミサに与ることが勧められています。
そんなこんなで(?)、今日も投稿が遅れてしまいました。先が思いやられますねぇ。

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

さて、今日は、イエス様が重い皮膚病を癒す奇跡を行われた場面です。
この病人は、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願って、癒されました。この発言は、どこが正しかった(義とされた)のでしょうか?

病気でも何でも、本当に癒すことがおできになるのは、この世界を創造され、あらゆる自然法則を支配されている神おひとりだけです。神でないもの、偽預言者や偽預言者を助けている悪霊の類が、癒しめいた「まやかし」を行う時、直ったように見えて、実際には問題を他の部位へ転嫁しているだけで、そのしわ寄せで問題は却って悪化してしまいます。(例えば、不適切なダイエットで揺り戻しが来たり、多大な出費で不健全な財政状態に陥ってしまったり、対症療法にしかならない薬物に頼って副作用を招いたりするようなものでしょうか?)

そして、神は意志そのものでらっしゃるので、「そのようになれ」と願うだけで、被造物はその御意志に従います。つまり、神の御意志は実現します。(実現していないように見えるとしたら、人間の自由意志を尊重されているか、大変複雑に絡み合っている事象全体が関係しているために、実現までに時間がかかっているように見えているだけか、何か深いご計画があるか、のいずれかでしょう)

そして、この病人は、イエス様に対して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言い、自分が癒されると信じたのです。

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January 06, 2005

【本日の福音】ルカ4:14-22aより

╋主の平安!(今日は北米での「主の御公現(epiphany)」の祝日でした)

皆さん、こんばんわ~。今日は投稿が大変、遅くなってしまいました。
以前、「黙想の手引き」と筆が滑って書いてしまいましたが、この連載はそんな上等なものではなく、せいぜいのところ一信者の「分かち合い」・感想文に過ぎません。その辺、ご了承下さいね。
また、今日から聖書英語テクストの引用場所を、全米カトリック司教協議会のものに変更します。Bible Gatewayの方は、皆さん、ブックマーク(お気に入り登録)されましたよね?

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日は、イエス様が故郷ナザレの会堂でイザヤの預言を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、(中略)実現した」と語り始められた場面です。福音では、この直後、ナザレの人々から迫害される場面が続きます。

私はこの、「この聖書の言葉は、今日、 (中略)実現した」とイエス様が宣言される場面は、最高にシビレちゃうんですねぇ。イエス様は、このナザレの会堂以外にも、普段から、安息日には会堂に入り、時には聖書の朗読に当たることも多かったことでしょう。実際、今日の福音の直前の箇所では「諸会堂で教え」られた、とあります。しかし、「この聖書の言葉は、今日、 (中略)実現した」と宣言されたことが記されているのは、この日だけみたいですね。いにしえより待ち望まれた救いの約束(預言)の実現を目の当たりにできた人々は、なんと恵まれていることでしょう! 本当に羨ましい限りです。

しかし、それも私の「岡目八目」なのでしょうか。 (^_^;) 幼い頃からよく知っている(場合によっては、「オムツだって取り替えてやったことのある」!)人物がメシア・救い主だなんて、きっと誰でも信じられないのでしょう。ナザレの人々は、せっかくメシアの到来を目撃しているのに、認めることができません。まだ来ていない、 (人間の限られた知恵を基準にして)もっとありがたい存在がメシアだと、何かもっと遠いものを期待しているようです。このあたり、『青い鳥』の教訓を彷彿とさせますね。(だからと言って、目の前にあるもの何にでも飛びついて、例えば、偽預言者だとかをメシアだと崇める態度もまた、困りものですが)

ナザレの人々は、イエス様がカファルナウムの町で行われたような癒しの奇跡をやってもらいたかったのでしょうか。メシアだという証拠を求めたのでしょうか。邪まな人々は、神から来たものでさえ信じたくないがために、頑なに徴(しるし)を求めようとしますが、しかし、別の箇所でイエス様が仰られているように、「ヨナのしるし以外与えられない」のです。カファルナウムでなされたような癒しの業は、小さき人々を見ては黙ってはおれないイエス様の慈しみの気持ちから出た、いわばサービスなのでしょう。聖トマスに言われたように、「見ないで信じるものは幸い」です。

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January 04, 2005

【本日の福音】マルコ6:45-52より

英文テクストはこちら↓
New American Standard Bible版テキスト

祈られるイエス様昨日の「パンの奇跡」に続いて、今日の福音は、イエス様が湖上を歩かれる場面です。
この節もそうですが、イエス様はよく「祈るために山へ行かれ」ますね。神であり、神のみ言葉そのものであられるイエス様も、人として地上で生活されておられた時には、御父なる神様と語らう為に時間を割かれました。「時間を割く」とは、「その人の為に献げる」と言う事です。私たちも、正しいものの為に、時間を割きたいものです。(…ああ、自分で書いていて、耳が痛いや…)

さて、湖上を歩く主・イエス様を見て幽霊だと勘違いした弟子たちに、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と仰られます。イエス様は真の神で、悪魔でさえ、その命令には逆らえません。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」弟子たちは、イエス様のことを「先生」と呼びながらも、イエス様が「主」である真の神、「主の僕」である約束されたメシアであることを飲み込めないでいました。聖霊降臨後の世界、聖霊を受けたこの時代(終わりの世)に生きている私たちは、その点、 聖霊によって主が真の神であることが識別できるように教えられているので、幸運だとも言えます。
しかし、多くのことを知らされているだけ、カトリック信者の責任は重大です。多くの恵みを受けながら、神の救いのご計画に協力しないカトリック信者は天国であまり良い場所を与えられない、とも、神から離れてしまったカトリック信者は異教徒で罪を犯した人々よりも重い罰を受ける、とも聞いています。「神の救いのご計画への協力」とは、例えば、未信者・異教徒の救いや罪を犯した人(煉獄の霊魂を含む)の赦しの為に執り成しを祈る、とか、侮辱(=メシアとして、傷ひとつないこの上なく完璧な「過越しの子羊」として、愛ゆえに人々の救いの為に、十字架にかかったことを正当に評価されないこと)を堪え忍んでおられる御聖体の中のイエス様をたびたび訪問してお慰めする、とかが考えられるでしょうか。

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【本日の福音】マルコ6:34-44より

英文テクストはこちら↓
New American Standard Bible版テキスト

マルコの福音書では最初の「パンの奇跡」の場面です。(2回目の場面は、 8:1-10)
私事で恐縮ですが、まだカトリックの洗礼を受けていなかった頃、国立大学の法学部にしては珍しく、クリスチャンの教授が多くいらした(最低3人はいましたね)中に、学内で定期的に「エマオ会」と言う、聖書を読む会を開いていらっしゃる先生がありました。その先生のお人柄もあり、珍しさも手伝って、その会に初めて顔を出してみた日のテーマがここでした。当時は、「主の晩餐」の意味も(ダ・ヴィンチの絵は知ってましたけど)、当然「御聖体(Corpus Christi)」のことも、何にも知らなかったので、こんな超能力めいた奇跡の話が一体どんな教訓をもっているのか、ちんぷんかんぷんだったことを憶えています。
もちろん、これは超能力の話がテーマなのではなく、来るべき「主の晩餐(あるいは、主の食卓)」と「御聖体」の秘跡の前表(ゼンピョウ、まえじるし)になっているのですが。(ほんの少しだけルールを曲げて、聖書を引用しますが)「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ」なんて、ホントに今のおミサの情景そのままです!
最後の「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」のくだりは、実に象徴的です(多分、「5つのパンと2匹の魚」自体にも象徴的な意味があるんだと思うんですけどね)。「12」は今のEUの旗の星の数にもなっている通り、マリア様の冠の星の数ですが(→「ヨハネの黙示録」12:1)、もちろん、十二使徒の「12」でもあります。「でもあります」と言うより、マリア様の被られる冠の星は、マリア様を中心として祈った使徒たち、つまり後の司教職にある高位聖職者を中心とした、「キリストの神秘体」である全教会そのものを表わしているのでしょうから、当然なのかも知れません。(旧ユダヤの十二部族に対して、この「教会」や新しい「12」部族のことを「新しいエルサレム」とも「新しいイスラエル」とも言いますよね)

なんか初日から長くなってしまいましたね。おまけに、黙想の手引きと言うより、要理の復習のようです(^_^;)
それでもまぁ、なんとか続けていきましょう。

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【本日の福音】はじめまーす

さて、多少、日記的投稿でも続けられるように、新しいコーナーを始めることにしましょうか。題して、【本日の福音】。
主日のミサでいただく小冊子「聖書と典礼」には、巻末に、その一週間に朗読される聖書の箇所が掲載されています。が、今回利用するのは、それをさらに簡略化したカトリック手帖(四谷交差点のサンパウロや、麹町教会=聖イグナチオ教会の売店でも売ってます)バージョン。 (^_^;) こちらには、福音の朗読箇所しか掲載されていませんが、これで十分です。

なぜなら。

私め、ラファエラ姉さんには、2000年12月2日に、フリーのホームページサービスgaiaxで始めた新コーナー 「日々の聖句」が三日坊主ならず、たったの一日で頓挫してしまった、と言う苦い経験があるからです…。
思えば、毎日聖書を開き、ラテン語の勉強にもなり、人にも教えてあげられる、あわよくば福音宣教の場に…、と一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなるかもしれない、グッドなアイデアだった筈なんですが、最初から燃え尽きてしまってはいけませんよね。 打倒!BurnOut症候群!!  ニフティのヴァーチャル庭園も枯らしてしまった(に違いない)過去をもつ私。今度こそは続けたい…。(あ、今日の朝刊に載ってたボールペン字講座も始めちゃおうか、一日20分だと言うし…;…なんて、筆記具3点セットに釣られたのがミエミエですね。異業種交流会等で白い万年筆持ってる私を見かけたら、笑ってやってください(*^_^*)>)

…はあはあ。最初からやけにトーンが上がってしまいましたが、肩の力を抜いて気楽に始めましょう。

現在、カトリックとプロテスタントの両方で共通に使われている聖書『新共同訳』は、本文を引用する手間が省けて楽です。と言うのは、私が聖書全文データベースCD-ROMを購入したから、ではなく、この新共同訳を始め、正統派の日本語訳聖書には、すべからく著作権が付いているからです。著作権の付いているテクストの引用は、著作権者へのご挨拶(許諾)がルールです。それは面倒くさいので、最初から引用を省略してしまおう、というのが、今回取り入れた方法論です(-_-;)
[※ それに日常的に、勝手な引用に悩まされているので、自分は人様のものを勝手に引用したりはしないぞ、と言うマニフェストだったりもします <耳が痛い読者さんもいらっしゃいますか~?]

でも、それではあんまりにも不親切なので、も少し歩み寄りましょう。
こんなのはどうでしょう:ネットから検索・コピペ一切自由な英語の聖書テクストへのリンクをつけます。そう、Bible Gatewayです。これなら、英語の勉強にもなって、一石二鳥でしょう! …それにしても、海外の聖書サイトはこんなにも充実しているのに、日本の聖書協会は…(溜め息)

…さぁ、始めるぞぉ~っ!

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