いやぁ、久しぶりですねぇ~~、「本日の福音」。もう、半ば、「本年の」福音、に化しつつありますが。(^_^;)
多分、これが(バックデートでの投稿を除き←と言うのも、まだ未提出の宿題をこれからでも間に合わせる希望を捨てていないから、ですが…)本年最後の「本日の福音」になるでしょう。
さて、本日は「聖家族」の祝日です。例年、主の御降誕の次の主日にあたる移動祝祭日ですが、今年は御降誕が主日にあたり、年内にもう日曜がないので、本日祝うことになっています。
で、「聖家族」のミサで読まれる朗読箇所でいつも耳が痛いのが、第一朗読の「シラ書 3:2-6、12-14」の
「子よ、年老いた父親の面倒を見よ。
生きている間、彼を悲しませてはならない。
たとえ彼(=父親)の物覚えが鈍くなっても、思いやりの心を持て。
自分が活力にあふれているからといって、彼を軽蔑してはならない。」
と言う箇所なんですが、幸い(?)今日はB年。第一朗読は「創世記 15:1-6、21:1-3」です。
…ですが、このコーナーで取り上げるのは福音だけなので、今日取り上げるのは、「ルカによる福音 2:22-40」です。(←リンク先は、例によって、全米カトリック司教協議会USCCB-NABの英文テキストですが、本日の箇所だけにリンクを貼ると、しばらくたつと該当ページが削除されてしまうので、ルカ書第2章全体にリンクを貼りました)
今日の朗読箇所は、第一朗読の「創世記 15:1-6、21:1-3」が長い(…ってほどでもないですが)せいか、朗読に長短2パターン用意されています。短いパターンでは、中ほどの老シメオンと女預言者アンナのくだりが省略されます。しかし、省略が多くとも、ミサの中で正式に朗読される福音なので、「立って聴いてるのが辛いんだけど、短くて良かった;神父様のお説教も短いといいな」…と思うのではなくて(^_^;)、ちょっとここで味わってみたいと思います。
あんまり短いので、(新共同訳の翻訳者の著作権を尊重して、いつも引用しないのですが)もう全部、引用してしまいたくなりますね。が、それは堪えて、要約してみると、律法に規定された産後の清めの時期を終えた聖家族が、律法の掟にあるごとく「初めて生まれた男子」を主に献げる為にエルサレムに上り神殿を詣でた話と、ナザレに戻って後の少年イエスの素晴らしい成長について記されています。
新共同訳では「初めて生まれる男子」となっていますが、上のUSCCB-NABでは、
「Every male that opens the womb shall be consecrated to the Lord」
胎(タイ)を開いた(=初めて子宮から出て来た)男子は皆、主に献げられなければならない
と、より旧約での律法と直結した表現になっています。初子(ういご)の聖別と言えば、エジプトでの過ぎ越し(出エジプト記12:1-30)、(鴨居と入り口の二本の柱に塗った)過ぎ越しの羊の血によって主のものとして聖別されたすべての家の初子が「撃たれ」ずに助かった出来事を思い出しますしが、これを記念して、神様は「初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである。…あなたの初子のうち、男の子はすべて贖(あがな)わねばならない。」 (出エジプト記34:19-20)、と律法の一部となさいました。神への奉献は、言わば、贖い(=滅びる定めの人間が、金を積んでも買い戻せないその命を、神の御業によって救われること)の印です。そして、この贖われた男子、神の為に聖別された者として、救い主イエスは成長していくのです。
ところで、ここで、お生まれになった救い主の「芽を摘み取」ろうと、ヘロデ王はベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を全員殺させましたが、同じ年頃の男の子であるイエスが、この時期(産後の清めの時期は40日間です)、エルサレムの神殿なんてウロウロしていて大丈夫なんだろうか?…、なんてちょっと疑問が生じました。
が、よく考えてみれば、ベツレヘム周辺だけでも2歳以下の男の子は数え切れないほどいたはずで、初子の奉献の為に、ユダヤ全土からエルサレムの神殿に参詣して来る家族は、もう星の数ほどもあったから、ちょうど、お正月の明治神宮の境内みたいな雑踏になって、とても男子殺害なんてやってらんなかったのかも知れませんね。
…だけど、東方の三博士の話をよく聞いていれば、メシアのお生まれになったのが何月何日で、その40日後は神殿にやってくるはずだから、その前後3日間、「公安警察」(?)を張り付かせておくこともできたかも知れなかったのになぁ…、とも思ったりして…。
…ま、でも、神殿なんて神聖な場所で(人の)血を流すなんてことは到底、無理でしょうけどね。