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January 2005

January 31, 2005

BIGLOBEウェブリブログより

以下は、BIGLOBEウェブリブログで2005年1月3日に公開した投稿です。


ども、BIGLOBEでのホームページ 「ラファエラ記念資料館」管理人「ラファエラ姉さん」です。

BIGLOBEのサービス「ウェブリブログ」の利用を開始するにあたり、ブログタイトル「霊妙なる器」について、ご紹介をば。

「ラファエラ姉さん」こと、私めは、カトリック信者です。
カトリック信者でありながら、同時に1社会人として、信仰上の話題に限らず、ビジネスについても真剣に考えてみたいと思います。
また、信者として、そのような社会貢献のあり方も可能なのではないか、と信じています。

そのようなメッセージ発信の場を作ろう作ろうと模索し続けて来ましたが、もしそんなウェブサイトを作るなら、そのサイト名として、聖母マリアの聖なる御名のひとつ「霊妙なる器」(Vase Spirituale)を採用しよう、とかねてより決めていたのでした。

信者として、日常的なつぶやきを投稿するブログは別に用意しました(「ラファエラ姉さんのウェブログ」)し、こちらの方は、もっぱらビジネス、特に、マネジメントに関する話題が多くなると思います。
が、その場合でも、観想(テオリア)と実践(プラクシス)において比類なき模範であられた聖母マリアから離れないよう、常に立ち返る初心としたいと思うのです。


(引用終わり)

なお、上記「ラファエラ姉さんのウェブログ」は、本日より、ブログタイトルが変わり、「日常的なつぶやき」だけのサイトではなくなります。 (^_^;) 勿論、【本日の福音】のコーナーも随時、継続していきます。

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ウェブログを統合します

ええと、いろいろ考えまして、BIGLOBEのウェブリブログで公開しておりましたブログ「霊妙なる器」をこちらへ統合します。
それに伴い、あちらで投稿していた原稿をこちらに移植し、ブログタイトルも変更します。
また、2月からはココログの契約変更を行い、さらに機能的にもバージョンアップする予定です。

ラファエラ姉さんのウェブログ「霊妙なる器」をこれからもどうぞよろしくお願いいたします。

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January 18, 2005

DVD『親分はイエス様』観ました

Mac miniなんかはどうでもよくて、昨日1月17日は、阪神大震災10周年でした。うちの父の80歳の誕生日でもありました。 父の誕生日と阪神大震災の日とが同じ日なんて、毎年いつも、複雑な気持ちです。

あの時、私は京都の下宿にいて、朝5時半に目が覚め、午後から神戸の大学院の演習で発表する予定だったレジュメに最後の手直し( 「泥縄」とも言います)をするべく、パソコン(当時は、Compaq Presario 433)に電源を入れた、その直後でした。 マッチ箱を狭い面を底面にして横に置いたような、細長いうなぎの寝床のようなマンションもかなり派手に揺れました。 なんだか泥縄の作業も嫌になっていた頃で、「こりゃ京都大震災だ、震度はどれ位だったんだろう?」とテレビを点けたら、 神戸が燃えていたのでした。「…どうやって、学校まで行こう…」。もう、学校どころの騒ぎじゃなかったですけどね。電車止まってたし、 いつも下車していたJR六甲道の駅はものの見事に潰れちゃってたし…。

それから阪神電車が青木まで復旧するまで、私の体は不思議と動き出しませんでした。震災の起こる10年位前には、 大阪の身体障害者の介護とか、釜ヶ崎の労働者の為の支援だとか、今で言うところの「学生ボランティア」に精を出していた私ですが、 目の前で京大生たちがボランティアに動き出していても、自分の在籍校が被災していると言うのに、 まるで何かに麻痺したように活動に参加することができないでいました。京都を捨てて神戸の大学院に進んだこと自体、自分には大バクチで、 神戸まで通学するのにかなりのテンションを必要としていたというのもあるのでしょう。震災で、まるで凧糸でも切れたみたいになってしまって、 腑抜けた日々を送っていました。

さらに、翌年の1996年1月20日頃、京都を10年に一度あるかないかの猛烈な寒波が襲いました。水道管も凍るほどでした。 うちのマンションも排水管が破裂してしまい、急遽、引越しを余儀なくされました。 引越しの荷造りで壁に並べた大きなスライド本棚を除けて見ると、コンクリートの壁に大きな亀裂が走っているのが壁紙の上から見えました。

それだから、震災は、テレビで聞かれるように「忘れる」だとか「忘れない」だとかの対象ではなく、 何かもっと私の奥深いところに突き刺さった「棘」のような出来事なのです。

しかし、そうは言っても、1月17日は父の誕生日。しかも、80と言う大台です。本人は嬉しくないかもしれませんが、 何かささやかなお祝いをしてあげたい、とかねて買っておいたDVD『親分はイエス様』 を鑑賞することにしました。「アーメンソーメン」嫌いな父ですが、配役は渡瀬恒彦あり、ガッツ石松あり、中村嘉葎雄ありの、 父の好きな俳優での豪華キャストです。これが何かの「やり直し」・生き直しのきっかけになったらいいな…、と思います。

(別に、これが連載【本日の福音】をサボってる理由じゃ、ないですよ)

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ツール・フェチに火を注ぐか~!?

Mac miniが出ましたね~。
58,590円ですって~? 手元のWindows用のモニターもキーボードもディスプレイも繋げるですって~? 別売アダプタを使えば、 テレビにも繋げるですって~? んまぁ、んまぁ、なんと言うことでしょう!

dynabook金のない駆け出し(…てもいないなぁ…)中小企業診断士の私は、コスト・パフォーマンス、 携帯しやすさ、耐久性、操作性…といったすべてを考慮して、今愛用しているdynabook SS SX/210LNLN(左の写真:この、「LNLN」 の部分にもこだわりがあるのです)を購入したので、とてもとても浮気する訳には参りませぬ…。(-_-#)

…でも、ひょっとして宝くじなんて当たっちゃったら、買っちゃうかも知れませんね。小さいから置くトコにも困らなさそうだし… (^_^;)

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January 16, 2005

地震・津波だけじゃなかった、この地の災い

ニュースを読んでのつぶやきです。

@nifty:NEWS@nifty:スリランカ武装勢力、津波被害に迅速救援…支配地ルポ(読売新聞)

先日、インドネシアのアチェで、人道支援中のNGOの活動地域の近くで発砲があった、と言うニュースが報じられたことがありました。そのとき、「人道支援を妨害する行為?」と憤りを感じ、調べてみたら、妨害などではなく、それどころか、この度のスマトラ沖地震による津波の被害を受けたインド洋沿岸の地域は、地震前から大変な紛争・内戦地帯だったことを知りました。
日本経済新聞の1面コラムにも、国際政治学者の猪口邦子氏が被災地における紛争について、記事を書いておられます。特に、インドネシア領内のアチェは、植民地時代のインドネシアがオランダから独立する際、独立を支援したアチェ王国であったのを、その恩も忘れてこれを併合してしまい、アチェで採れる天然ガスの利権ゆえにアチェの人々を大量虐殺していたと言う事実には衝撃を覚えました。(インドネシアと言う国の性格は、東チモール独立までの歴史を見ても明らかです)
大きな不正義が行われていたのに、国際社会からは天然資源に絡む利権ゆえに無視され続けていては、神様も一刻も早く御許に引き寄せ憩いと慰めを与えたい、と思われたかも知れません。

祈りも、募金も、人道支援も、そしてもっともっと報道も必要です。私たちは同じ時代を生きる兄弟たちについて、知る義務があります。

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January 15, 2005

【本日の福音】マタイ1:29-2:17(水-土の4日分)

…いよいよ、【本日の福音】が「今週の福音」に近づいて参りました。あ~あ…(-_-;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト マタイ1:29-1:45
New American Bible版テクスト マタイ2:1-17
(全米カトリック司教協議会による)

今日取り扱うのは、多くの病人を癒し、徴税人のレビを弟子にする箇所です。

イエス様はどうして、こんなに多くの病人を癒したのでしょうか? 「神の愛」を体現するだけに、病気で困っている人を見るに見かねて、激しい同情心に駆り立てられたからでしょうか?

そういう理由もないこともなかったでしょうが(…二重否定?)、当時、多くの敬虔なユダヤ人は、病気、特に「重い皮膚病」は、罪ゆえに神から来る罰だと考えられており、律法にも共同体に戻る為には「浄め」が必要、と定められ、「罪深い自分」は神に近寄れない=神殿で神を礼拝することなどできるような、神に相応しい存在ではない、と自己否定に走り、神から遠ざかってしまっていました。

しかし、それは神についての誤った認識です。神様は、慈しみ深い方です。それは、旧約だから「厳しい」、新約だから「愛の神様だ」、とか言う時代区分についての誤った常識には関係なく、太古の昔の最初から、実は、「赦し」の神だったのです。人間が犯した罪を素直に認め、童心の様に神様に立ち返ろうと正しい決心を起こされるなら、先回りして抱き締める用意をして待っておられる方なのです。神様は、永遠に、昔も今も、その性質を変えたりなどなさいません。ただ、人間の方の間違った思い込みが、「神様は厳しい方」と言う、誤った神様像を作り上げていただけです。

その為、イエス様は、人々の抱く神様への認識を正しいものに訂正してあげる必要がありました。そして、誰でも、素直に神に立ち返りたい人は皆、神様との仲直りができるよう、神様へ向かう「道をまっすぐに平らに」してくださったのです。勿論、その準備は洗礼者ヨハネも行いましたが、洗礼者ヨハネは、「罪の赦し」そのものの権限は持っていませんでした。イエス様は、 人間の罪を取り除く権能をお持ちの神様そのものですので、 (普通の敬虔なユダヤ人なら、「近寄るのも汚らわしい」と感じる)病人に対してであっても、罪深い職業とされていた売春婦やレビのような徴税人であっても、彼らに向かって真っ直ぐに歩いて行かれます。

なぜなら、神は、病人を病気ゆえに、人を職業ゆえに「罪びと」だ、なんてお考えではないからです。罪は、人の心より生じるものです。「神様に赦されて、再び神の民に加えられたい」と言う望みを持っていたとしても、人間の限られた理性故に陥っている誤った自己否定と周囲からの偏見、そんなつまらない理由で、欠けがえの無い神さまとの愛の交わり・愛し愛されの相思相愛状態(=「至福直観」 とも言いますが)を放棄し小さく孤独に震えているなんて、そんな哀れな人間の姿は見るに見かねるのです。神との交わりの障害になっているのが、ただ、病気だったり、職業に対する偏見だったりするなら、その障害さえ取り除いてあげれば、御許に戻って来る。自分の枠に囚われている人間にはできないのなら、神の方から歩み寄ろう。神様の愛とは、そういうものです。

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January 11, 2005

【本日の福音】マルコ1:14-28より(2日分)

ここのところ、クリスチャンでない父にキリスト教関係のDVD(とりあえずは『ミッション』『親分はイエス様』 )を見せようと画策していて、この連休の日曜の夜には『天地創造』(原題: "The Bible ...in the beginning")を一緒に見ました。ノアの箱舟のシーンは圧巻でした。この次は『十戒』を見るぞ~(未入手)。2月9日(灰の水曜日Ash Wednesday)から始まる四旬節(Lent、カトリックの復活祭の準備期間で、言わば「祈りと断食」のシーズンです)に『パッション』を見せたいんですねぇ。

そんなこんなで、すっかり投稿のタイミングがずれ込んでしまい、今日は2日分です。(^_^;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

さて、今日のところは、イエス様の公生活の始まり、最初の4人の弟子の召し出し、悪霊の追い出しの場面です。
マルコによる福音書では最初の弟子の召し出しはサラリと書かれているだけで、なんだかこの4人は考えなしに知らない人に付いて行っちゃったみたいですが、ルカによる福音書5:1-11では、不思議な漁とシモン・ペトロの召し出しが詳しく伝えられています。また、ヨハネによる福音書1:35-42では、まず洗礼者ヨハネの弟子だったアンデレが「見よ、神の小羊だ」 と教えられてイエス様に付いて行き、次いで自分の兄弟シモン・ペトロに紹介するくだりが述べられています。 (以上、1/10分)

続く悪霊(「汚れた霊」 )を追い出す場面では、「汚れた霊」が「ナザレのイエス、 (引用中略)正体は分かっている。神の聖者だ」 と叫ぶのが印象的です。私は、霊の世界のことには疎いので(^_^;)、「名指し」のもつ意味とか、この辺の事情に不案内で、なんだか敵がイエス様のことを褒めてくれたみたいな、変な感じがしますです。
この「汚れた霊」は、故人である幽霊(←カトリックでは地獄に堕ちたのでない「煉獄にいる霊魂」は、既に救われていずれ天国に入る浄い霊です)でも、悪魔(サタン、神様に叛旗を翻した堕天使)でもなく、もっと低級な霊的存在のようです。と言うのは、続いてこの出来事を見て驚いた人々が「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と論じ合っているからです。
この発言にも、現代を生きる私たちと、昔の人たちとの言語感覚(?)の違いを意識させられてしまいます。つまり「権威」 (authority)と言う概念です。被造物はすべて神のご命令に逆らえません。神から出る意志命令系統の正統性を表わすものが本来の意味での「権威」です。 (絶対王政の王権神授説は、国王が神の教えに従っている限りは、正統なものでした)
翻って、私たちが考える「権威」とは何でしょう?「権威主義(的)」などと言うとまるで、自分がなく、長いものに巻かれようとする役人根性のようです。しかし、「正しい権威」に従うのは、自由意志の最高の発露です。なんか、カントめいて聞こえますが、話は逆で、カントの倫理性は、キリスト教的な「自由」概念から出発しているのです。 (カント哲学の宣伝をしているのではありません)

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January 09, 2005

【本日の福音】マタイ3:13-17より

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日(=主日)は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面でした。
「洗礼」とテクストにはありますが、教会ができてからの秘跡としての「洗礼」 とは、ちょっと意味合いが違います。教会の秘跡としての「洗礼」は、教会のメンバーに加えられるに当たって、アダム以来の原罪と、その人自身がその日までに犯してきた罪である自罪の両方を、神である主イエス・キリストの権限において、秘跡の執行者を代理人として、まったく浄めてしまう儀式です。「罪の赦し」は神にしかおできにならないので、目には見えませんが、それを「洗礼」という目に見える行為で表現するのが、教会の秘跡としての「洗礼」です。
さて、当時、ユダヤ人の間で宗教的な「禊ぎ(みそぎ)」の儀式として水に身を浸すことがあったようですが、洗礼者ヨハネは更に発展させて、神に対して犯していた罪を「悔い改め」るしるしとして、罪の告白(現在の教会では聴罪司祭による「赦しの秘跡」として行われています)と一緒に施していたようです。
ところが、そこへイエス様がお見えになりました。イエス様は罪など犯したことのないお方です。当然、告白すべき罪もありませんし、「悔い改め」る必要もありません。それでも、人々の模範として率先して、神へとまっすぐに心を向かわせる行為である「洗礼」を受けたかったのです。
「悔い改め」とは、何だか、ややもすると舌を噛みそうな位音節が多くて、難しい響きの語ですが、「改心」とも「悔心」とも「回心」とも言います。「回心」とは、これまで神から離れ私利私欲や自己愛に走っていた私心を捨てて、心を神様の方に向けることです。自分の罪深さに無神経では神様の方を向けませんので、自然、己れの罪深さへの後悔の念と二度と罪を犯したくないと言う決意を伴います。だから「悔い改め」なんですね。難し気ではありますが、「神様の方へ向き直ることだ」と考えれば、今すぐにでもできそうではありませんか?

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January 08, 2005

【本日の福音】ヨハネ3:22-30より

あらら~、だんだんどこのTime Zoneで暮らしているんだか判らなくなってきましたね~。(^_^;)

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日は、洗礼者ヨハネが衰え、イエス様が栄える、というくだりです。
福音の本筋とは離れるかもしれませんが、私はこのような「証し」が議論されるパッセージを読むと、今の信者と昔のユダヤ人との、言葉のもつ力と言うか重みに対する意識の違いみたいなものを強く感じます。「証言」と「正統性」とがイコールであるかのようで、ある種、羨ましさを感じたりするのですが。
さて、洗礼者ヨハネの台詞に出てくる「花婿」はメシア=イエス様、「花嫁」=敬虔な信者・洗礼を受けに集まる人々、です。これは、たとえ男性であっても、神や神に遣わされたメシアを慕い憧憬れる信者は「花嫁」だと言うのは、もう、聖書のお約束みたいなものです。そうすると、旧約聖書の中の「雅歌」の恋人の歌も、神と信者との熱烈なラブソングと読めるんです。けっこう、艶っぽい詩が多いですが。雅歌も立派な聖書の一部なので、当然、聖務日課(教会の祈り)のテクストですし、厳粛な女子修道院で、お堅いシスターが、俯きながら(心の中で)顔を赤らめながら、唱えたりしているらしいです。が、このような内容が信仰に相応しくないわけではなく、神の愛とは本来、これほど激しいものなのであって、人間の方が勝手に取澄ました冷たいものにすり替えてしまっているのでしょう。

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January 07, 2005

【本日の福音】ルカ5:12-16より

今日は初金でした! 主の聖心(みこころ)を崇敬するため、おミサに与ることが勧められています。
そんなこんなで(?)、今日も投稿が遅れてしまいました。先が思いやられますねぇ。

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

さて、今日は、イエス様が重い皮膚病を癒す奇跡を行われた場面です。
この病人は、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願って、癒されました。この発言は、どこが正しかった(義とされた)のでしょうか?

病気でも何でも、本当に癒すことがおできになるのは、この世界を創造され、あらゆる自然法則を支配されている神おひとりだけです。神でないもの、偽預言者や偽預言者を助けている悪霊の類が、癒しめいた「まやかし」を行う時、直ったように見えて、実際には問題を他の部位へ転嫁しているだけで、そのしわ寄せで問題は却って悪化してしまいます。(例えば、不適切なダイエットで揺り戻しが来たり、多大な出費で不健全な財政状態に陥ってしまったり、対症療法にしかならない薬物に頼って副作用を招いたりするようなものでしょうか?)

そして、神は意志そのものでらっしゃるので、「そのようになれ」と願うだけで、被造物はその御意志に従います。つまり、神の御意志は実現します。(実現していないように見えるとしたら、人間の自由意志を尊重されているか、大変複雑に絡み合っている事象全体が関係しているために、実現までに時間がかかっているように見えているだけか、何か深いご計画があるか、のいずれかでしょう)

そして、この病人は、イエス様に対して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言い、自分が癒されると信じたのです。

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January 06, 2005

【本日の福音】ルカ4:14-22aより

╋主の平安!(今日は北米での「主の御公現(epiphany)」の祝日でした)

皆さん、こんばんわ~。今日は投稿が大変、遅くなってしまいました。
以前、「黙想の手引き」と筆が滑って書いてしまいましたが、この連載はそんな上等なものではなく、せいぜいのところ一信者の「分かち合い」・感想文に過ぎません。その辺、ご了承下さいね。
また、今日から聖書英語テクストの引用場所を、全米カトリック司教協議会のものに変更します。Bible Gatewayの方は、皆さん、ブックマーク(お気に入り登録)されましたよね?

英文テクストはこちら↓
New American Bible版テクスト(全米カトリック司教協議会による)

今日は、イエス様が故郷ナザレの会堂でイザヤの預言を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、(中略)実現した」と語り始められた場面です。福音では、この直後、ナザレの人々から迫害される場面が続きます。

私はこの、「この聖書の言葉は、今日、 (中略)実現した」とイエス様が宣言される場面は、最高にシビレちゃうんですねぇ。イエス様は、このナザレの会堂以外にも、普段から、安息日には会堂に入り、時には聖書の朗読に当たることも多かったことでしょう。実際、今日の福音の直前の箇所では「諸会堂で教え」られた、とあります。しかし、「この聖書の言葉は、今日、 (中略)実現した」と宣言されたことが記されているのは、この日だけみたいですね。いにしえより待ち望まれた救いの約束(預言)の実現を目の当たりにできた人々は、なんと恵まれていることでしょう! 本当に羨ましい限りです。

しかし、それも私の「岡目八目」なのでしょうか。 (^_^;) 幼い頃からよく知っている(場合によっては、「オムツだって取り替えてやったことのある」!)人物がメシア・救い主だなんて、きっと誰でも信じられないのでしょう。ナザレの人々は、せっかくメシアの到来を目撃しているのに、認めることができません。まだ来ていない、 (人間の限られた知恵を基準にして)もっとありがたい存在がメシアだと、何かもっと遠いものを期待しているようです。このあたり、『青い鳥』の教訓を彷彿とさせますね。(だからと言って、目の前にあるもの何にでも飛びついて、例えば、偽預言者だとかをメシアだと崇める態度もまた、困りものですが)

ナザレの人々は、イエス様がカファルナウムの町で行われたような癒しの奇跡をやってもらいたかったのでしょうか。メシアだという証拠を求めたのでしょうか。邪まな人々は、神から来たものでさえ信じたくないがために、頑なに徴(しるし)を求めようとしますが、しかし、別の箇所でイエス様が仰られているように、「ヨナのしるし以外与えられない」のです。カファルナウムでなされたような癒しの業は、小さき人々を見ては黙ってはおれないイエス様の慈しみの気持ちから出た、いわばサービスなのでしょう。聖トマスに言われたように、「見ないで信じるものは幸い」です。

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January 04, 2005

【本日の福音】マルコ6:45-52より

英文テクストはこちら↓
New American Standard Bible版テキスト

祈られるイエス様昨日の「パンの奇跡」に続いて、今日の福音は、イエス様が湖上を歩かれる場面です。
この節もそうですが、イエス様はよく「祈るために山へ行かれ」ますね。神であり、神のみ言葉そのものであられるイエス様も、人として地上で生活されておられた時には、御父なる神様と語らう為に時間を割かれました。「時間を割く」とは、「その人の為に献げる」と言う事です。私たちも、正しいものの為に、時間を割きたいものです。(…ああ、自分で書いていて、耳が痛いや…)

さて、湖上を歩く主・イエス様を見て幽霊だと勘違いした弟子たちに、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と仰られます。イエス様は真の神で、悪魔でさえ、その命令には逆らえません。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」弟子たちは、イエス様のことを「先生」と呼びながらも、イエス様が「主」である真の神、「主の僕」である約束されたメシアであることを飲み込めないでいました。聖霊降臨後の世界、聖霊を受けたこの時代(終わりの世)に生きている私たちは、その点、 聖霊によって主が真の神であることが識別できるように教えられているので、幸運だとも言えます。
しかし、多くのことを知らされているだけ、カトリック信者の責任は重大です。多くの恵みを受けながら、神の救いのご計画に協力しないカトリック信者は天国であまり良い場所を与えられない、とも、神から離れてしまったカトリック信者は異教徒で罪を犯した人々よりも重い罰を受ける、とも聞いています。「神の救いのご計画への協力」とは、例えば、未信者・異教徒の救いや罪を犯した人(煉獄の霊魂を含む)の赦しの為に執り成しを祈る、とか、侮辱(=メシアとして、傷ひとつないこの上なく完璧な「過越しの子羊」として、愛ゆえに人々の救いの為に、十字架にかかったことを正当に評価されないこと)を堪え忍んでおられる御聖体の中のイエス様をたびたび訪問してお慰めする、とかが考えられるでしょうか。

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←こんな時計を貼ってみました~

おおー、5時近くまでかかって、今度は成功!

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これもツール・フェチ?

毎年春と秋、わが家では「パン戦争」が勃発します。私はふジパン派、父はやマザキ派。そう、「春(秋)のパン祭り」(これはやマザキ派のタームか…(`_´;)ゞ)の景品を巡る争いです。父はこんなに集めたパン皿をどーやって棺桶まで持っていくつもりなのかわからないほど、やマザキの皿を集めているクセにまだ集めたがるのですが、私が京都から横浜の実家に戻ってからは、簡単には、やマザキシールを集めさせたりはしません。キャンペーン期間がひと月ほど長めとは言え、みフィーちゃんの手提げバッグを自分の分と母の分、そしてできればアメリカの妹の分まで確保する、と言う難度の高いミッション、それこそ雨の日も風の日も、お腹をこわしていてもパンを食べ続ける、苦行にも似た使命を全うせねばならないので、情けは禁物です。 が、今年は作戦遂行の任に当たっていた母が、知らずにシールの付いていないエントリーモデルを買い漁っていた結果、かなりの期間を棒に振ってしまい、気が付いてみればキャンペーン終了まであと2日と言うところで、何かおかしいことに気が付いたのでした。

01040001…頑張りました。ラストスパートでの神業にも似た頑張りを常とする私も、今回限りは…とも思いましたが、なんとかひとつゲット。今日、届きました~!(なんのことはない、これが嬉しくて、投稿を増やしただけのことでした!)


※この原稿は、auから投稿してみました~

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【本日の福音】マルコ6:34-44より

英文テクストはこちら↓
New American Standard Bible版テキスト

マルコの福音書では最初の「パンの奇跡」の場面です。(2回目の場面は、 8:1-10)
私事で恐縮ですが、まだカトリックの洗礼を受けていなかった頃、国立大学の法学部にしては珍しく、クリスチャンの教授が多くいらした(最低3人はいましたね)中に、学内で定期的に「エマオ会」と言う、聖書を読む会を開いていらっしゃる先生がありました。その先生のお人柄もあり、珍しさも手伝って、その会に初めて顔を出してみた日のテーマがここでした。当時は、「主の晩餐」の意味も(ダ・ヴィンチの絵は知ってましたけど)、当然「御聖体(Corpus Christi)」のことも、何にも知らなかったので、こんな超能力めいた奇跡の話が一体どんな教訓をもっているのか、ちんぷんかんぷんだったことを憶えています。
もちろん、これは超能力の話がテーマなのではなく、来るべき「主の晩餐(あるいは、主の食卓)」と「御聖体」の秘跡の前表(ゼンピョウ、まえじるし)になっているのですが。(ほんの少しだけルールを曲げて、聖書を引用しますが)「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ」なんて、ホントに今のおミサの情景そのままです!
最後の「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」のくだりは、実に象徴的です(多分、「5つのパンと2匹の魚」自体にも象徴的な意味があるんだと思うんですけどね)。「12」は今のEUの旗の星の数にもなっている通り、マリア様の冠の星の数ですが(→「ヨハネの黙示録」12:1)、もちろん、十二使徒の「12」でもあります。「でもあります」と言うより、マリア様の被られる冠の星は、マリア様を中心として祈った使徒たち、つまり後の司教職にある高位聖職者を中心とした、「キリストの神秘体」である全教会そのものを表わしているのでしょうから、当然なのかも知れません。(旧ユダヤの十二部族に対して、この「教会」や新しい「12」部族のことを「新しいエルサレム」とも「新しいイスラエル」とも言いますよね)

なんか初日から長くなってしまいましたね。おまけに、黙想の手引きと言うより、要理の復習のようです(^_^;)
それでもまぁ、なんとか続けていきましょう。

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【本日の福音】はじめまーす

さて、多少、日記的投稿でも続けられるように、新しいコーナーを始めることにしましょうか。題して、【本日の福音】。
主日のミサでいただく小冊子「聖書と典礼」には、巻末に、その一週間に朗読される聖書の箇所が掲載されています。が、今回利用するのは、それをさらに簡略化したカトリック手帖(四谷交差点のサンパウロや、麹町教会=聖イグナチオ教会の売店でも売ってます)バージョン。 (^_^;) こちらには、福音の朗読箇所しか掲載されていませんが、これで十分です。

なぜなら。

私め、ラファエラ姉さんには、2000年12月2日に、フリーのホームページサービスgaiaxで始めた新コーナー 「日々の聖句」が三日坊主ならず、たったの一日で頓挫してしまった、と言う苦い経験があるからです…。
思えば、毎日聖書を開き、ラテン語の勉強にもなり、人にも教えてあげられる、あわよくば福音宣教の場に…、と一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなるかもしれない、グッドなアイデアだった筈なんですが、最初から燃え尽きてしまってはいけませんよね。 打倒!BurnOut症候群!!  ニフティのヴァーチャル庭園も枯らしてしまった(に違いない)過去をもつ私。今度こそは続けたい…。(あ、今日の朝刊に載ってたボールペン字講座も始めちゃおうか、一日20分だと言うし…;…なんて、筆記具3点セットに釣られたのがミエミエですね。異業種交流会等で白い万年筆持ってる私を見かけたら、笑ってやってください(*^_^*)>)

…はあはあ。最初からやけにトーンが上がってしまいましたが、肩の力を抜いて気楽に始めましょう。

現在、カトリックとプロテスタントの両方で共通に使われている聖書『新共同訳』は、本文を引用する手間が省けて楽です。と言うのは、私が聖書全文データベースCD-ROMを購入したから、ではなく、この新共同訳を始め、正統派の日本語訳聖書には、すべからく著作権が付いているからです。著作権の付いているテクストの引用は、著作権者へのご挨拶(許諾)がルールです。それは面倒くさいので、最初から引用を省略してしまおう、というのが、今回取り入れた方法論です(-_-;)
[※ それに日常的に、勝手な引用に悩まされているので、自分は人様のものを勝手に引用したりはしないぞ、と言うマニフェストだったりもします <耳が痛い読者さんもいらっしゃいますか~?]

でも、それではあんまりにも不親切なので、も少し歩み寄りましょう。
こんなのはどうでしょう:ネットから検索・コピペ一切自由な英語の聖書テクストへのリンクをつけます。そう、Bible Gatewayです。これなら、英語の勉強にもなって、一石二鳥でしょう! …それにしても、海外の聖書サイトはこんなにも充実しているのに、日本の聖書協会は…(溜め息)

…さぁ、始めるぞぉ~っ!

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【続報】ツール・フェチな私…

本日受信したメルマガ(ユーキャン繋がりで購読してます)に、百式さんが似たこと書いてました~
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思わず使ってみたいツールの導入で、動作開始の閾値を低くする、というような趣旨に、激しく同感。
ついでに、周辺機器を充実化させてきた経緯から、すっかりご無沙汰になっているガジェット(?百色氏の場合はギターであったようですが)が捨てられない~、てな話も、微笑ましく、うんうんと共感。
…おっと、ここら辺は、ビジネスとマネジメントのウェブログ「霊妙なる器」 (※)的テーマに近くなってしまったかも…
 ※こちら(=「霊妙なる器」)は、プロヴァイダの仕様上、ubicast Bloggerを使ってません…(T_T)

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January 02, 2005

ツール・フェチな私…

まだ、起きてます(*^_^*)

ブログという表現方法には、前々から興味があったのですが、コメントだとかトラックバックだとか、普通のホームページにはない機能があるので、それだけ、(双方向?ネットワーク)コミュニケーションの幅が広がる新しさがあるとは言え、ある意味、自らメッセージを書きながら、同時に掲示板の管理(現在追われているスパムメール退治同様に、ココロを鬼にしないといけない所業)のようなこともしなくてはならないわずらわしさ?胡散臭さ?も感じていて、なかなか最初の一歩を踏み出せずにいた訳ですが、とうとう、そんな私の背中を押したのは…
ubicast Bloggerhttp://blog.ubicast.com参照)というシェアウェアでした。

そもそも、新年にあたって、なんか新しいシェアウェアが欲しくなって、Vectorhttp://www.vector.co.jp/)をブラブラしてみようと思ったのが運の尽きで…。(-_-;)

新しい道具を使ってみたいなんて、どうもツールに弱い。目先の目新しさに、つい、余計な行動に駆り立てられてしまふ…。去年の秋、 PHS(H゛)を機種変更したばかりで、そのPHSから投稿するのも楽しいと来てる。ついでに一昨年の秋契約したばかりのauの方も、機種変更してしまおうか、…なんて。いかん、いかん。

こんなのって、サイバーパンク的ネタに繋がるテーマでしょうかね?

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新年早々、風邪ですわ

寒いですねー。風邪引いているので、さっさと寝たらいいのに、携帯から投稿できると言うのを試してみたかったりします。 (*^-^*) ウェブログ初心者なら皆、同じことを考えるに違いなく、似たようなこと書いてる人、多いんじゃないかなぁ…。つまんないこと書いてごめんなさいねぇ。

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ウェブログ事始

ども、ラファエラ姉さんです。2005年も明けました。と言う訳で(?)、とうとう私もウェブログ・デビューに踏み切ることになりました。(う~ん、堅い堅い)ホームページ 「ラファエラ記念資料館」ともども、よろしくお願いいたしまーす。

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